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福島県棚倉町字富岡…蔵光寺

  • 蔵光寺

この蔵光寺には、「新田義貞の墓」があり、また「将軍地蔵」と呼ばれている地蔵菩薩があり、安産、子育て、勝運のご利益があらたかとされ、古くから多くの婦人の信仰を集めている。

この将軍地蔵尊は、新田義貞の妻の勾当内侍が、この地に難をのがれたとき、守り本尊の 地蔵菩薩を携えて来たのを将軍地蔵尊として祀ったものと伝えられる。

また次のようにも伝えられる。

勾当内侍は夫の首級と守り本尊の地蔵菩薩を携え、侍女と共に八溝の山を越えこの富岡の地に至った。しかし内侍は、この地で長旅の疲れから病を得てこの地で体をいやした。

里人たちはこれを憐れに思い、内侍のために粗末な家を建て世話をした。内侍は里人らの優しさに心を打たれこの地に留まることとし、夫義貞の首級をこの地に葬り墓を築き、侍女と共に日夜供養を重ね、手厚く霊を弔ったと云う。

新田義貞は、鎌倉幕府と対立し、一族郎党を率いて稲村ヶ崎を突破し、楠木正成討伐のため手薄になっていた鎌倉を攻め、北条氏を滅ぼした。その後、時代は後醍醐天皇のもとでの建武の新政となったが、義貞は足利尊氏と対立し、南北朝に分裂すると南朝方の旗頭となった。

北畠顕家や楠正成ととともに足利尊氏を破り、尊氏を九州へ奔らせたが、九州を平定し再起をはかり海路東上してきた足利軍に対して、楠軍とともに湊川で戦ったが敗れ京へ敗走した。

この敗北で、義貞は和議を求める後醍醐天皇から退けられ、北陸道を猛吹雪の中、越前の金ヶ崎城まで逃げて篭城し足利軍と戦うがこれも敗れ、それでも一時勢力を盛り返したものの、越前藤島城を巡る戦いで戦死した。首級は京に運ばれさらされたと云う。

新田義貞に関わる伝説は、戦死した藤島をはじめとし、全国各所にある。後年、軍記物の『太平記』で、後醍醐天皇より下賜された女官である勾当内侍との別れのエピソードなどとともに取り上げられたことから形成されたのかもしれない。またこの地は、新田義貞とともに鎌倉を攻めた南朝方の雄の白川氏の領地であったことから、何らかの史実が含まれている可能性も考えられる。