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福島県いわき市四倉町玉山字牧ノ下…恵日寺

 

高木武雄は、いわき市四倉出身の海軍軍人で猛将として知られ、最終階級は海軍大将。

明治25年(1892)1月、いわき市の玉山温泉の鉱泉宿「藤屋」の長男として生まれた。小さい時から頭脳明噺で、小学生の頃には級長をつとめ、体が小さいこともあってチビ級長と呼ばれていた。中学に入ると、8kmの道のりの磐城中学まで、脚絆を巻き朴歯をはいて、いつも傘を持って通学したと云う。

明治41年(1908)、兵学校に入校、明治44年(1911)卒業、成績は148人中17番で、卒業時の平均年齢は21歳7ヶ月であったが、高木は19歳6ヶ月で最年少の卒業だった。在校中は、特に柔剣道と水泳が得意で、砲術科および水雷科など、いずれも優秀な成績だったと云う。

大正12年(1923)海軍少佐となり海軍大学校に入校、その後は潜水艦艦長や第二潜水戦隊参謀など潜水艦関係の経歴が多い。昭和7年(1932)、海軍大学校教官在任中海軍大佐に昇進、軽巡洋艦「長良」艦長、海軍省教育局第一課長、重巡洋艦「高雄」艦長、昭和12年(1937)には、当時の連合艦隊の旗艦だった戦艦「陸奥」の艦長となった。その後は、昭和13年(1938)海軍少将に昇進、第二艦隊参謀長、軍令部第二部長、第五戦隊司令官となり太平洋戦争を迎えた。

第五戦隊の司令官として南方攻略作戦に参加、その後はスラバヤ沖海戦、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島ヘンダーソン基地砲撃、南太平洋海戦と、日本海軍の重要な戦いの多くに参加した。昭和17年(1942)海軍中将に昇進したが、当時すでに日本海軍は大規模な艦隊規模の作戦を遂行する能力はなかった。

翌年に潜水艦が主体の第六艦隊司令長官に親補された。旗艦は特設潜水母艦の「筑紫丸」で呉に常駐していた。潜水艦部隊の指揮には通信能力が高い旗艦からの指揮で事足りるのだが、高木は、指揮官は先頭に立って指揮を執るべきと考えており、旗艦は呉に置いたまま副官など少数の幕僚と共にサイパンに進出した。敵戦闘艦攻撃や輸送作戦に果敢に戦力を投入したが、犠牲が多く戦果は少なかった。

米軍によるサイパン島の攻撃が近づく中、大本営は南雲忠一中部太平洋方面艦隊長官をはじめ、高木らサイパンに残留する艦隊や戦隊司令部要員を潜水艦によって救出する作戦を実行させたが、これも犠牲ばかりが多く、目的を達することは困難だった。このため、高木自ら大本営の好意に感謝しつつも、救出作戦の中止命令を発した。

昭和19年(1944)6月15日、米軍は6万6千の兵を繰り出しサイパン島へ上陸を開始した。日本軍は陸軍約2万5千、海軍約6千で、アメリカ軍は圧倒的な火器と空からの攻撃で島を席捲していった。日本軍は補給も無い中、夜襲による肉弾戦を行ったが、体勢を挽回できるはずもなかった。

各司令部は、ガラパンの町の洞窟へ移動していたが、その後、東北部の地獄谷へ移り、南雲中将は自決し、高木は7月5日次の言葉を軍令部に打電して消息を絶った。

一、サイパンに進出し、麾下潜水艦の赫々たる武勲を目撃したるを喜ぶ。

二、第六艦隊員および甲標的要員をひきい、われ敵陣に突入す。万歳]

7月7日、サイバンの日本軍守備隊は玉砕した。高木は特旨を以て海軍大将に進級。享年53歳だった。

なお、高木の死については、その死を目撃した生存者がいないことから、戦後になってもその死について諸説がある。その内の一つとして、ある人が高木の遺族から聞いたという話で、それによると、サイバン最後の日に、高木は連絡のため東京に戻ってきており、久しぶりに自宅でくつろぎ、孫を抱いて庭先を散歩していた。そのとき軍令部からサイバソの悲報が入り、高木は顔色を変え、抱いていた孫を投げすてるようにして軍服に着替え、家族の話しかけにも答えず、「サイパンに行く」といってとび出し、そのまま帰らなかったという。