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横手城の東3km程のところに、滝ノ沢という景勝地があり、かつてこの地には塩釜桜が自生していたとされ、江戸初期には、佐竹義宣の側室の岩瀬御台がよく散策に訪れていたと云う。

岩瀬御台は後に不縁となり、横手に預けられ、この滝ノ沢は、御台が横手での30余年の歳月の慰めとした場所と伝えられている。

滝の高さは約5m、幅は約10mで、滝の岩棚は、上部が凝灰岩質砂岩で、下部はそれよりやや古い硬質の砂質泥岩からなる断層崖となっている。

古くから滝ノ沢霊場として知られ、周囲には三十三観音、薬師如来、不動明王、五輪塔が安置されている。

佐竹義宣の側室だった岩瀬御台は、二階堂家から葦名家の養子となった葦名盛隆の娘で二階堂家の阿南の方の孫である。

会津の葦名盛氏は、二本松の畠山義継、須賀川の二階堂盛義、三春の田村清顕などの諸将を片っ端から斬り従えて配下とし、会津に葦名氏の最大版図を築いた。

しかし後継者には恵まれず、家督を嫡子の盛興に譲ったが、盛興は盛氏に先だって若死してしまった。盛興の正室は、伊達晴宗の娘の彦姫で、盛氏は二階堂氏から人質にきていた盛隆を、未亡人の彦姫と結婚させ、当主にすえた。

盛隆の母親は伊達政宗の叔母で、二階堂氏の女当主になった阿南の方であり、彦姫は阿南の方の妹にあたる。

盛氏の没後、二階堂氏の人質から葦名氏の当主になった盛隆に対する不信と反感で、天正12年(1584)、盛隆は近習により黒川城内で殺害されてしまった。盛隆のあとは、岩瀬御台の弟で、生まれてまもない亀若丸が継ぐことになったが、その亀若丸も2歳で死んでしまった。結局、葦名氏は佐竹義重の次男の葦名義広が継いだ。

岩瀬御台は、葦名盛隆が没したのち、祖母の阿南の方に引き取られ育てられた。しかしその二階堂家は、天正17年(1589)南奥制覇を目指す伊達政宗に攻められ滅亡、岩瀬御台は、阿南の方とともに福島の杉目城、磐城と移り、最後に甥の佐竹義宣の常陸に身を寄せた。

このとき佐竹義宣は正室を亡くして独り身だった。正室の正洞院の実家は那須氏であり、義宣よりも3歳年長の気の勝った美しい姫だったという。義宣を一家の当主というよりも、弟のように見つめ、愛情を注いでいたのかもしれない。

佐竹氏の当主は義宣であったが、父の義重は健在であり、実質的には義重が一族を束ねていたのだろう。義宣は思慮深く「律儀」な性格だったようで、父義重や、一族重臣の意見を十分に取り入れていたのだろう。しかしそれは、豊臣秀吉の小田原征伐では、秀吉への臣従を意味するものであり、正洞院実家の那須与一以来の名家の那須氏は、豊臣秀吉に臣従することを拒否することを決めた。

このとき21歳の義宣にとってはこの決定は重過ぎるものだったと考えられ、その決定は、恐らくは佐竹氏重臣や父の佐竹義重が決めたのだろう。この決定は、正洞院にとっては、実家の那須氏の意向とは異なり、場合によっては佐竹氏と那須氏が戦うことにもなりかねないことだった。そしてそれは、正洞院は名家の誇りの中で、思慮深く律儀な夫義宣を「文弱」と考えてしまったようで、実家との挟間で自死してしまった。

このような境遇の義宣に「岩瀬御台」も心を寄せたのだろう、ほどなくして姫は義宣の側室となり、「岩瀬御台」と呼ばれるようになった。二人の間に子は出来なかったが、仲は良好だったようだ。

佐竹氏は一時は伊達氏との南奥を巡る争いに敗れ家運を傾けたが、石田三成や上杉景勝と親交を結んでおり、いち早く小田原に参陣し、豊臣秀吉に臣従したことで、その所領を確定的なものにし、豊臣政権での中枢を占めるようになっていった。

しかし、佐竹氏は義宣が石田三成や上杉景勝と近かったことで、関ヶ原の戦いの際には上杉寄りの動きをし、その咎で出羽久保田へ転封、岩瀬御台は秋田入部に従った。

豊臣秀吉の時代はキリスト教は禁止されていたが、それはまだ厳しいものではなく、特に当時の知識階層の上級武士やその家族には、新しい文化として浸透していた。岩瀬御台も切支丹だったといわれている。江戸時代になってからは、キリスト教の禁止は厳しくなり、江戸幕府は、諸藩に対しても厳しい取り締りを求めるようになっていた。

秋田佐竹藩には鉱山が多くあり、その労働は非常に厳しかったために、鉱山内では、主殺し、親殺し以外の罪に対しては寛容であり、切支丹も多く集まっていた。そのような時期に、仙台藩でガルバリヨ神父ら数人が捕縛され処刑され、また仙台藩の水沢福原の切支丹領主の後藤寿庵が棄教を拒否し藩を出奔した。

後藤寿庵のその後の消息は定かではないが、出羽秋田藩の稲庭付近に、陸奥仙台藩領から厳中と名乗る男がやってきて、大眼宗なる宗教を広めたといい、これが寿庵ではないかとされる。信者らは太陽と月を崇拝し、眼の紋の入った羽織を着用し、仙北地方から内陸南部にかけて、秋田藩領の鉱夫の間に瞬く間に広がった。

当時の横手は、伊達政宗の叔父で、政宗の許を出奔した国分氏が領しており、仙台藩を出奔した後藤寿庵らを保護する者もいたのかもしれない。いずれにしても後藤寿庵(眼中)はこの地で布教活動を行い勢力を拡大した。これに対し秋田佐竹藩は、元和8年(1622)横手城代須田盛秀に命じ寿庵を捕縛したが、信者らと町中で戦闘となり、賊徒二三十人を召し捕ったが寿庵は取り逃がした。

後藤寿庵は、当時の切支丹の中心的な存在で、バチカンとも連絡を取り合っていた存在だった。岩瀬御台も、その存在を知らないわけはなく、寿庵は秋田での布教活動に対して岩瀬御台になんらかの依頼をしたのではないかと推測できる。

また須田盛秀は二階堂氏の勇将で、伊達政宗に抵抗し戦った阿南の方に最後まで付き従い、岩瀬御台の守護神のように付き従った忠臣だった。このときの盛秀の行動は独断専行的だったようで、十分な取り調べなども行わずに処刑したようで、寿庵も取り逃がしており、佐竹義宣の不興を買ったようだが、これは岩瀬御台の関りを隠すためだったのではと思われる。

その後、幕府からは、義宣に対し「岩瀬御台と離縁せよ」との命が下ったようで、関ヶ原以来の秋田佐竹藩の立場から、それを逆らうことなどできるわけもなく、義宣は岩瀬御台を離縁。二度と会うことはなかった。

岩瀬御台は、須田盛秀が城代を務める横手城に預けられた。須田盛秀の許には須賀川衆と呼ばれる二階堂以来の懐かしい家臣たちが多く、温かい心遣いに囲まれて余生を送る。義宣の久保田城からは、頻繁に使いがご機嫌伺いに訪れ、書状は一通もなかったが、何かにつけ贈り物があったという。体調を崩したと聞いて、医師を寄越して来たりもした。

佐竹義宣は寛永10年(1633)64歳で死去。その6年後の寛永16年(1639)、岩瀬御台は波乱に満ちた生涯を終えた。