スポンサーリンク

南部氏からの独立をめざす津軽の津軽為信は、いち早く豊臣秀吉のもとに上がり、豊臣政権を背後とし、南部氏からの独立を果たした。為信は、それを確固としたものにするために、嫡男の津軽信建を豊臣秀頼の小姓として大阪城に上げた。

しかし、秀吉没後、大阪方と徳川家康が対立するようになり、天下は関ケ原の戦いになだれ込んでいくことになる。為信は、津軽独立に際して尽力してくれた石田三成に対してシンパシーを感じていたようだが、徳川家康からの強い働き掛けもあったようだ。

為信は結局、石田三成を烏帽子親とし、秀頼の小姓でもあった嫡男の信建に密かに兵3百をつけて大阪城にいれて、三男の信牧は徳川方とし、自身は家康との外交交渉にあたり日和見を決め込んだ。

そのようなことから、関ケ原戦後は、信建は津軽藩の後継の座からは外れたようで、三男の信牧が後継と目されるようになった。

慶長7年(1602)、為信が手元に預かっていた信建の子・熊千代の顔に、誤って怪我をさせてしまい、このことで信建と為信は対立してしまった。その際、使者に立った家臣・天童某の不手際を責め、一族を処刑してしまった。これにより天童一族が信建に反抗して城内で乱闘になるなど、家中は混乱し、天童一族は討伐された。

そのようなこともあり、後継問題では信建に同情的だった家中の者たちの心も信建から離れていったようだ。

為信は、徳川への配慮もあり、後継は三男の信牧に決めていたが、それでも信牧の跡は、信建の子の熊千代をとの思いもあったようだ。

信建は慶長12年(1607)、京にて病を発症した。この時期為信もまた病を患っていたが、信枚を伴い京まで見舞いに駆けつけ、恐らくは、これまでの絡まりもつれた糸をほぐそうとしたのかもしれない。しかし信建は同年10月に享年34歳で死去、その2ヵ月後の12月、為信も死去した。

為信の跡は、三男の信枚が継ぐことになった。しかし、信枚派と信建の遺児熊千代(大熊)を擁立する大光寺新城の津軽建広(大河内建広)や旧信建直臣団らが家中を二分し、お家騒動が起こった。建広は北条の遺臣で医師であったが、為信に見出され重臣に取り立てられ、その後為信の娘を室にしていた。

建広の言うには、「長子相続が原則であり,長子の信建が為信と同年に没しているのだから、その流れは当然熊千代君になる。長兄相続の原則をみだりに変えることは,これからの藩政の混乱のもと」というものであり、また「為信公も,信建公は西軍に付いたために後継にすることは考えてはいなかったが,長子相続の原則からは熊千代君を後継と望んでいた」というものだった。

津軽為信は、信建が関ケ原では西軍に与したために廃嫡せざるを得なかったが、信建の身の立て方も考え、なんらかの形で熊千代に後継をとの考えを持っていたようだ。しかし,先の天童事件以来、為信と信建の間は疎遠になっており、何よりも信建に対して家中の目は冷たくなっていた。

建広は幕府に対し熊千代の藩主相続を訴え本多正信に訴状を提出した。訴状は正信に受け入れられ熊千代の相続が決定するかと思われたが、正信と同じ家康側近の安藤直次がこれに反対した。結局、直次の主張が容れられ、慶長14年(1609)に幕府から信枚の藩主相続が認められた。

関ケ原の戦いのときに、徳川家康から津軽藩の重臣として送り込まれていた服部康成は、信枚の意向を受けて、熊千代派の粛清に動いたようだ。これにより、熊千代付きの金信則は自刃、津軽建広らは大光寺城に立て籠もったが落城した。また、熊千代の母方の祖父一戸兵庫之助が、村市館に篭り津軽勢と激闘を繰り広げたが落城した。

この津軽騒動では、信牧が為信の後継となったが、その経緯から、幕閣の中で熊千代相続支持だった本多正信、正純親子らは、信枚に対し、熊千代に毎年100両を与えることを命じ、熊千代は江戸に留め置かれた。後に肥後加藤藩に仕えたが、病弱であったためすぐにこれを辞して隠居したとも伝わる。

津軽建広は。上京して、北条時代の医師に戻り、後に江戸幕府の御典医となった。医師になっても津軽氏としての意地からか、旧姓大河内には復さずに以降も津軽氏を名乗り、幕府内でも津軽氏一門の一家としての名跡を認められた。