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江戸幕府の政治も、250~60年も過ぎ、幕府や各藩の財政も危機におちいり、封建政治が大きく崩れはじめ、各地で百姓一揆も相次いで起こり、世論がさわがしくなっていた。幕府や藩の政治のあり方も問題となり、内部に党派的なしこりができ、政治的対立がはげしくなっていた。

さらにその頃、外国船が開港を求めてつぎつぎに来航するようになり、国内問題のほかに、対外問題がからんで幕藩の体制をゆさぶりはじめた。特に、対外問題については、幕藩共に危機を意識して海防の強化につとめるようになった。尊王攘夷論と佐幕開国論の二議論が全国的な風潮として広まっていった。

水戸藩では、後継藩主の問題を巡って、保守的な上級武士層と、改革を望む下級武士層とが相反目し、争っていた。その結果、改革派が勝って、徳川斉昭(なりあき)を藩主に迎えて、藩政の大改革を行い、それ以来、両勢力は相対立するようになった。

安政年間(1854~1860)には、将軍の継嗣問題と条約勅許の政争があり、安政5年(1859)、水戸藩に勅書が出された。それは、幕府が勅許を得ずに日米通商条約に無断で調印したことを責め、幕府が公論を聞いて、公武一和の政策を幕府に採らせるよう水戸藩に尽力を命じたものだった。これがこじれて安政の大獄となり、また、桜田門外の変となり、一挙に幕府の権威を失墜することになった。

文久3年(1863)は、長州藩の外国船の砲撃事件、大和の天誅組の乱など各所に、尊王攘夷派による内乱、義挙があり、それらに刺激された水戸藩の尊攘「激」派も行動を起こし、その手始めに、常、総、野三州の農村や宿場町に対して攘夷のための軍資金や物資の調達に走り廻り、金穀を強要したり、差し出さねば掠奪をしたりした。そして翌元治元年(1864)には、水戸藩の尊攘派が一体となり、武田耕雲斎、藤田東湖の一子小四郎、田中愿蔵らが中心となって、筑波山にたむろして義旗を風になびかせ、天狗党を名乗り挙兵した。

「筑波山に義旗が翻る」と報ぜられると、日頃、尊攘精神を燃やしていた者、幕藩政治に不満不平の者、全国よりつどい寄る志士たちは日に夜をついでその数を増し、中には浪士はもちろん、百姓、町人、僧侶なども加わり、数日後には150人、その後、最も勢いのあった時期で約1,000人という大規模な集団に膨れ上がり、このまま放置するとどんな暴動になるかわからない状態になった。これがきっかけとなり、京都周辺だけでも、新撰組の池田屋事件、蛤御門の変があり、天下は上を下への大騒ぎとなった。

しかし、その後、「鎮」派の藤田小四郎は「幕府を助けて、尊王の実効を奏せん」と主張し、「激」派の田中愿蔵は「幕府を存置せしめて、なんの尊王ぞ」と討幕を主張し、二つに割れ対立するようになった。この集団挙兵の目的の相違から、党内には派閥が起こり、紛争が絶えなくなり、四分五裂の状態となり、首領の武田耕雲斎は、もともと「鎮」派だったので、田中に組することはできないとして脱し、あとには、討幕の決意の固い志士だけが残り、筑波で戦うことになった。

水戸藩内の保守派は、藤田らの改革派の排撃を始めたが、藩内は甲論乙駁相争うばかりで少しもらちがあかなかった。幕府も天狗党追討令を出し、常陸、下野の諸藩に出兵を命じ、水戸藩も追討軍を結成し、元治元年(1864)7月、諸藩連合軍と天狗党との間で戦闘が始まった。しかし天狗党の士気は高く、天狗党の夜襲を受けるなどして諸藩軍は敗走、水戸へ逃げ帰った保守派は水戸城を占拠し、天狗党に加わっている者の一族の屋敷に放火、家人を投獄するなどした。このために天狗党内に動揺が起き、また天狗党の動きが、藩内の対立になり矮小化してきたため、天狗党と決別するものが多くなった。

周辺の各藩や代官所は、目ぼしい所には関門や見張所を設けて検問させ天狗党への締め付けは一段と厳しくなった。挙兵当時の意気込みはどこへやら、分裂に分裂を重ねて弱体化した天狗党は筑波山を捨てることとし、愿蔵ら激派は上州に赴き、若い博徒や農民をかき集め別働隊として行動した。しかし、栃木で軍資金を要求し拒否され、陣屋に火を放ったことから、放火、略奪の罪で幕藩から追われることになった。

田中愿蔵は、三百数十名の将士を連れて、茨城、栃木、福島の三県境にそびえる八溝の山を本拠地と定め、八溝嶺神社に入ったが、あてにしていた別当一家は逐電し、協力を得ることはできなかった。万事休した田中愿蔵は、後日再挙を計ることを約束して、渓流の水を酌み交わし、党を解散した。

山を下りた党員の一部は、警戒していた塙代官所や棚倉藩の兵に捕らえられた。捕らえられた二十四名の党員は一旦土蔵に監禁され、その後、塙の大梅に引き出され、十数尺もあろうという桜の木に捕縄のまま引っ掛けられつるし切りにされたという。その後この地は天狗平と呼ばれるようになった。

この大梅の地で捕縛された一帯の中に「八溝小僧」と呼ばれた十三歳の少年がいた。浪士たちと共にこの少年もとらわれて同じく土蔵に監禁されたのだが、浪士たちは、一人一人この少年の前に進み出て、平伏して名を名のったという。そして、この土蔵での生活では、いつも八溝小僧を正面上座に据え、他の浪士は左右に控えていたという。

まもなく、この少年も大梅の地で露と消え失せた。恐らくは天狗党がその旗頭として担ぎ上げた高貴な身分の少年だったのだろうが、やがて維新回天の大偉業を成し遂げるのだと信じ、一命をこの難に殉じたのだろう。現地に建てられている供養碑に「蔀(しとみ)幼君(ようくん)年十三歳」と刻まれている。

愿蔵ら他の党員もそれぞれに捕縛され、塙の代官所で調べを受けた後、現在の「道の駅はなわ」の付近の河原で処刑された。まだ20歳の若さだった。愿蔵は頭も切れ、眉目秀麗な気品のある立派な男だったとも伝えられる。「道の駅はなわ」の供養塔は、愿蔵の処刑に関わった代官所の役人の手によって建てられたものと云う。

藤田小四郎らが率いる天狗党本隊は、その後局面を打開すべく、幕軍の追っ手から逃れると共に、京都に上り一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決した。11月京都を目指し出発し、主として中山道を通って進軍を続けた。途中、追撃してくる幕府軍と交戦しながら、越前に入ったが、京都からの幕府軍を徳川慶喜が率いていることを知り、慶喜に差し出した嘆願書の受け取りも拒否されて、ついに武装解除し投降した。

この投降した天狗党に対しても幕府の処分は苛烈で、計352名が斬首され、他は遠島、追放などの処分が科された。