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山形県天童市の三寶寺に、織田信長からの流れを持つ、織田家宗家の廟所がある。

織田氏は、織田信長の死後急速に衰退し、天下の表舞台からその名を消した。信雄は、家康と組んで小牧・長久手の戦いで秀吉と戦ったが、その後は秀吉に臣従し豊臣大名となった。秀吉の力を背景とし信長後継とされた秀信(三法師)は、関ヶ原の戦いで西軍に与し岐阜城攻防戦で敗れたため改易され断絶し、織田信長の次男の信雄が宗家を継いだ。

信雄は、のちに家康から所領を与えられ、上野国小幡で2万石の大名となった。このとき、信長以来の名族であるという格式を幕府から重んじられて、国持大名格や網代の輿、爪折の傘を用いる特権を与えられた。

第7代藩主信邦の代の明和3年(1766)には、藩財政再建をめぐって重臣間の紛争が生じた。これをきっかけとして明和4年(1767)に尊王思想家の山県大弐らが捕らえられた明和事件、この明和事件に連座していたとして信邦は蟄居処分となり、信邦の跡を継いだ実弟の信浮は出羽高畠藩二万石へ移された。このとき、それまでの国主格などの特権も全て剥奪された。

藩領は、高畠の六村と天童など村山郡の一部、信夫郡の一部だった。陣屋は、高畠城の縄張り内に置いた。天明2年(1782)からの天明の大飢饉で藩財政が悪化し、家臣団ですら食うに困って織田家から辞した者も少なくなく、藩主は幕閣に対し小幡への復帰を嘆願したが、叶えられなかった。

第3代藩主織田信美は、藩領の大部分が天童を中心とした村山郡に集中していることを考慮して、居館を高畠陣屋から天童に移すことを願い出て、文政11年(1828)に幕府から移転を許され、天保元年(1830)に陣屋を天童に移した。このため、以後は「天童藩」となった。

天童藩は立藩当初から財政難に悩まされていたため、家臣の俸禄借り上げ、厳しい倹約令を施行し、安政2年(1855)には紅花の専売制を行なおうとしたが、藩政改革は失敗した。しかしそれでも藩重臣の吉田大八は、藩内の手内職への反対もある中、将棋は兵法戦術にも通じるとの考えから、これを遊ぶことも、また駒を製作することも武士の面目を傷つけるものではないとして、その受ける扶持だけでは生活できなかった藩士に将棋駒の製作を奨励し、それが将棋の町天童市の基礎を作った。

織田家宗家御廟がある三寶寺は、文政13年(1830)、幕府寺社奉行より織田宗家の菩提寺を申し付けられた。その時、天童織田藩主から、20両が下賜され、御霊屋が建立された。太祖織田信長をはじめとし、代々の藩主や家族、79名の御位牌が安置されている。

慶応4年(1868)、戊辰戦争で天童は戦火にかかり、御霊屋は焼失したが、御位牌は運び出され難を逃れた。現在の御霊屋は、元織田藩士らによって、昭和6年(1931)に建立され、仰徳殿と呼ばれている。

戊辰戦争において、天童藩は奥羽鎮撫使先導役名代となり、家老の吉田大八は、和平工作を活発に行った。しかし、奥羽鎮撫総督軍の挑発と庄内藩の反発という対立の構図を改めることはできなかった。そのため庄内藩が天童城下に攻め込み、城下はことごとく焼かれた。

戊辰戦争後の明治3年(1370)、天童藩第3代藩主だった織田信敏が知事として返り咲くと、官軍として戦った経緯から、明治政府より藩祖織田信長に建勲神(たけしいさおのかみ)の神号を賜り、建勲(たけいさお)神社が城山山頂に造営され、明治17年(1884)に現在の場所に移り、織田氏の流れは現代にまで続いている。