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宮城県気仙沼市には、早馬神社を中心に、鎌倉幕府内での政争に敗れた梶原景時の一族の伝承が伝えられている。

梶原氏は、坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族であり、後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政を祖とする。梶原氏は大庭氏らとともに源氏の家人であったが、平治の乱で源義朝が敗死した後は平家に従っていた。

治承4年(1180)、石橋山の戦いでは、大庭景親とともに頼朝討伐に向かい、頼朝軍を打ち破ったが、敗走した頼朝が山中の洞窟に潜んでいるのを見つけたが、情をもってこの山には人跡なしとしたという。

その後、頼朝は安房国へ逃れて再挙し、頼朝軍は大軍に膨れ上がり、鎌倉に入り、その後、平維盛率いる平氏軍を撃破し、大庭景親は捕えられ斬られた。景時は頼朝に降伏、頼朝と対面し御家人に列した。弁舌が立ち、教養のある景時は頼朝に信任され、また不遜な振る舞いが多い上総広常を討ち取り、重用されるようになった。

各地での平氏との戦いでは、その事務能力・実務能力の高さから、義経軍の戦目付となった。

しかし景時は、屋島の戦いの「逆櫓論争」で、「進むのみを知って、退くを知らぬは猪武者である」と言い放ち義経と対立した。そのようなこともあり、頼朝に対する義経の戦いぶりに対する報告は、辛辣なものになったようで、これが「梶原景時の讒言」と呼ばれた。

畠山重忠が武蔵国の館に戻ったことに、景時はこれを不審として、重忠が謀反を企てていると言上した。人望のある重忠を陥れようとしたとして景時は御家人たちからひどく恨まれた。

また、文治5年(1189)奥州合戦の際に、捕虜になった泰衡の郎党・由利八郎を景時が尋問したが、その傲慢な態度に由利八郎は怒り尋問に応じようとしなかった。代わって尋問にあたった畠山重忠が礼法に則って遇したため由利八郎は感じ入り尋問に応じたと言う。

正治元年(1199)頼朝が死去すると、その信頼を背景として傲慢な振る舞いが多かった景時は、他の御家人たちから疎まれるようになった。それでも二代将軍頼家の代にも引き続き宿老として十三人の合議制が置かれると景時もこれに列した。

頼家と有力御家人との対立が元で不祥事が続き、これを嘆いた結城朝光の言辞を取り上げ、これを頼家への誹謗であると讒言し断罪を求めた。しかしこれを知った御家人たちは怒り、三浦義村、和田義盛ら諸将66名による景時排斥を求める連判状が頼家に提出された。孤立した景時は、一族とともに所領の相模国一ノ宮の館に退いた。

正治2年(1200)正月、京都政界と縁故を持つ景時は、一族を率いて上洛すべく相模国一ノ宮より出立したが。途中、駿河国清見関にて在地の武士たちと戦闘になり、同国狐崎にて嫡子・景季、次男・景高、三男・景茂が討たれ、景時は付近の西奈の山上にて自害し、一族33人が討ち死にした。

建保5年(1217)、鶴岡八幡宮の別当であった景時の兄の梶原専光坊僧正景実は、源頼朝死後の、これを追うかのような梶原一族の没落、又、和田、畠山氏が滅んで行くのを見て世を憂い鎌倉を離れ、蝦夷地を目指して下り、その途中、気仙沼唐桑の石浜に辿りつきそこを切り拓き住んだと云う。居宅の脇に一廟を建て、源頼朝、梶原景時、 梶原景季の御影を安置し、一族の冥福を祈り菩提を弔う為、梶原神社(早馬神社)を勧請し祀った。

建保7年(1219)、景時三男景茂の子の景永は、父の仇を討った後、景實僧正の後を慕って唐桑に至り景實の猶子となり、早馬大権現別当として早馬山頂に社殿を建立したという。

この気仙沼地方は、源平合戦一の谷の合戦で平敦盛を討った熊谷次郎直実の子直家が、奥州合戦の功により、本良庄の地頭職に補任され赤岩城を築城したものと伝えられる。直家の子の直宗の時期には、熊谷氏は下向し、赤岩城を中心に気仙沼地方に勢力を伸張し、本吉郡北方に支配権を拡大しつつあったと思われ、梶原氏一族を与力として勢力下に置いたのだろう。

熊谷氏は、この地に下向した熊谷直家から四代目の直光、五代目の直時の時には、一族を各地に配し着実に勢力を広げた。しかし、南北朝期に、この地方の最大勢力の葛西氏に攻められ、その後、葛西氏と本吉・気仙沼地方の覇権をかけて争うようになった。

恐らくこの時期には、唐桑の梶原氏は唐桑を支配し、早馬神社の山頂に唐桑城を築き、熊谷氏の与力として葛西氏と対峙したと考えられる。また別系統の梶原氏一族が、本吉地方南の歌津に梶原館を築き葛西氏に備えたと思われる。

しかしこの戦いの結果、本吉郡の多くは葛西高清が掌握することとなったが、熊谷直時、その子直明の時代はたびたび葛西の大軍と戦ってその勢に屈せず、そのまま領地を維持した。しかし、南北朝期終わると、寺池葛西氏が総領権を得て力を持ち、熊谷氏もついに葛西家に降りその支配下に入った。

記録によれば、唐桑城は葛西氏重臣の阿部氏が領したようだが、梶原氏を祀る早馬神社がそのまま残ったことから、梶原氏は熊谷氏とともに葛西氏に臣従、あるいは帰農したと考えられる。しかし天正18年(1590)、豊臣秀吉の「奥州仕置」により葛西氏は所領を没収され、この地の梶原氏も歴史の中に埋もれていった。