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旧本吉町の山深い集落に、「ポーポー様の墓」と伝えられる小さな墓石があり、今も里人らに見守られている。この墓については、次のような伝承がある。

昔、ある吹雪の夜、一夜の宿を求めている男がいた。その男は病気だったので、感染を恐れて誰も助けなかった。しかし、林の沢の里人たちは、その男を温かく迎え看病した。そして数日後、その男は全快する。

その男は、日本の言葉を話せなかった。しかし、看病の謝礼なのだろうか、魔法のようなものを使って、里人たちを助けたという。病人のいる家を訪ねては、痛いところを優しくなでて、「ポーポー 」と言いながら、息を吹きかけた。すると不思議なことに、病気が治ったという。いつしか里人たちは、その男のことを、「ポーポー様」と呼ぶようになった。

ポーポー様は、里人たちと仲良く暮らし、林の沢で生涯を終えた。里人たちは、ポーポー様の墓を建てて、ねんごろに弔った。そして病気になった時は、ポーポー様の墓に行って病気が治るようにお願いしたという。

他の地方の話で、「十字らしいものを切り『 マメチヨ、コメチヨ、ポーポー 』といって、 キリシタン宣教師がまじないをした」という話が伝えられていることから、キリシタンとの関連が考えられる。

この林の沢から10kmほど西には、江戸時代初期に激しいキリシタン弾圧があった大籠や狼河原があリ、この話の時期もほぼ重なることを考えれば、このポーポー様はキリシタンのそれも宣教師であった可能性が高いと推測できる。

大籠村には、永禄年間(1558~69)に、備前から千松大八郎、小八郎の兄弟がこの地に来て、鉄の精錬の指導をしながらキリスト教の伝道をしていた。大籠を中心に、狼河原(宮城県米川)、馬籠(宮城県本吉)で、恫屋八人衆の下、南蛮流の製鉄法で良質の鉄を産し、多数の切支丹が働いていた。

慶長17年(1612)、幕府は切支丹の禁教令を出したが、伊達藩は,製鉄の保護という意味から,切支丹に対して寛容な政策を採っていた。しかし、幕府の圧力は次第に強まり、寛永元年(1624)の正月には仙台の広瀬川の水牢で、カルバリヨ神父ほか8名が殉教した。

これでひとまず切支丹の取り締まりは納まったが、寛永13年(1636)、伊達政宗が没すると、この年から翌年にかけて、幕府の強い要請で、徹底した切支丹の取締りが行われ、狼河原村や隣の大籠村で300人以上の殉教者が出た。

フランシスコ・バラヤス(和名:孫右衛門)神父は、このころ大籠に潜入し、信徒数は増加していた。伊達政宗が没し、島原の乱が起こると、バラヤス神父は捕縛され江戸で殉教し、大籠でも大弾圧が始まった。寛永16年(1639)には、地蔵の辻で84名、翌年には、地蔵の辻と上野刑場でそれぞれ94名、その他を含めて300名を超える殉教があった。

それでも伊達藩は、製鉄を保護する目的で、製鉄の中心的な存在の「どう屋八人衆」を保護し、その後も製鉄を続けさせた。一旦は四散した切支丹たちは再びこの地に集まり始め、苦行仏に似せてキリスト像を作り、慈母観音像に似せてマリア像を刻み、洞窟に礼拝所を作って密かに信仰を続けた。

しかしこれらの切支丹にもついに弾圧の手が伸び、享保年間(1716~36)、切支丹は捕らえられ、最後まで転宗しなかったものは磔刑にされた。処刑された凡そ120名は、40人ずつ、老の沢、海無沢(かいなしざわ)、朴の沢の3ヶ所に経文と共に葬られ塚が作られた。現在は、この海無沢(かいなしざわ)の塚のみが原型を保っている。

三教塚の近くに「切り捨て場」と呼ばれる地がある。この場所は、多くの切支丹が処刑され、大量の血を吸った場所と伝えられている。この場所は桐木場屋敷の人達が代々申し伝えにより、密かに供養していた聖地だったが、同家が昭和57年(1982)に北海道に移住する際、隣家の近親者に以降のことを頼み、そのことにより初めて世に知られるようになった。三段の石段を形造る川石の並べ方は往時のままであるという。

昭和になり、この三教塚を訪れた司教が、帰り道にこの坂に差し掛かり、塚にかけたロザリオをそのまま忘れたことに気づき戻ったがロザリオは見つからなかった。殉教者の霊がロザリオをかの地に持ち去ったと、当時の人々は噂したという。