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天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原北条氏を滅ぼし、奥州仕置を行うと上杉景勝に命じて最上・由利.庄内・仙北など十一郡の検地を命じた。小野寺義道は小田原に参陣し、小田原から京に上り軍を帰した。その義道の留守中に、「仙北検地騒動」が起こった。

上杉景勝は大軍を率いて仙北郡に入り、大谷吉継が横手城、藤田能登が角館など、それぞれ分担して検地にあたった。しかし、その部下たちは上の威勢を笠にきて傲慢な振舞いが多く、地元の反発を招いた。検地方の振るまいに業を煮やした小野寺氏領の諸城主らは、百姓一揆を起こす手筈を決めた。一揆軍は蜂起し、増田城を占拠して立て籠った。景勝は増田城攻撃の軍を派遣し、激戦の結果、一揆勢は討伐され検地騒動も一段落をつげた。

これにより、義道はこの「仙北検地騒動」への関与を疑われ、所領の一部が削られ三万石のみが安堵され、旧領の雄勝郡は山形の最上義光に宛がわれた。このことから、小野寺氏はその後も最上氏と幾度も争うことになった。

最上義光は先に安堵された小野寺領の支配を実質化しようとしたが、小野寺氏家中の知勇の将の八柏道為がいる以上困難とみた義光は、謀略をもって小野寺氏内部に手を回し、八柏道為を義道によって謀殺させた。そして、文禄4年(1595)湯沢城を攻略せんとして楯岡満茂を大将として、鮭延秀綱・小国・延沢らの軍が押し寄せた。

城主の小野寺孫七郎・孫作兄弟は最上の大軍を迎え撃って激戦となった。この事態に小野寺義道は援軍を繰り出そうとしたが、周囲の状況から援軍を出すことができなかった。湯沢城は落城し、最上氏の支配するところとなった。

湯沢城についで岩崎城も最上方に落ち、小野寺氏は次第に最上軍によって領地を侵食されていった。これに対して、慶長2年(1597)、小野寺義道は湯沢奪還のために、楯岡満茂が守る湯沢へ押し出した。満茂は湯沢城の北に兵を出して、小野寺勢に対峙した。義道は森山に陣を布き、3月7日未明、両軍は激突した。戦いは一進一退し双方討死する者、手負う者が続出した。両軍の放つ鉄砲の音、鯨波の声は天地にとどろき、押えの兵として残されていた者たちも加わり、両軍、大乱戦となった。

このとき、楯岡満茂は手兵を割いて北に向かわせると、これを見た小野寺勢に動揺が走り、陣が崩れた。これを好機とした満茂は兵を繰り出し、小野寺勢を追撃したが、小野寺勢は本陣で最上勢の追撃を退け、双方とも兵を引いた。

以後も、この方面における小野寺勢と最上勢の小競り合いは関ヶ原の合戦に至るまで繰り返された。

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦が起こり、小野寺義道は家康に属し出陣したが、家康は北羽の武士に対し最上義光の統制のもとに行動するよう命じた。しかし、最上氏は小野寺氏にとって以前から対立してきた敵であり、慶長期に入っても争いは続いていた。やがて、直江兼続が上杉勢を率いて最上領に進攻することになり、最上義光は窮地に陥った。

義道はこれを所領回復の好機と捉え、徳川家康の出陣要請を無視し、東軍の最上氏の所領に侵攻した。しかし、西軍が関ヶ原で敗れたことで形勢は逆転、直江兼続は兵を引き揚げ、会津の上杉氏は降伏し、出羽の関ケ原は最上氏の大勝利となった。ここにおいて、小野寺氏は孤立無援の状況におかれた。

十月、最上義親を大将とした最上勢は、安東氏、由利党の応援を得て小野寺方の大森城に攻め寄せた。小野寺氏最後の拠点の大森城は、雄物川左岸の小さな丘陵上に位置する。頂部が主郭で、比高は約80m、東西130m、南北75mで周囲は土塁に囲まれていたとされる。主郭の東側には幅約15mの帯郭が、さらに東側には東西75m、南北90mの二ノ郭と東西100m、南北55mの外郭が配されている。現在は大森公園として整備されている。

この時期の城将は、小野寺義道の弟の康道だった。康道は有屋峠合戦、蜂ノ山合戦など、小野寺氏の主要な合戦にその中枢として参戦し活躍していた。

十月、最上義親を大将とした最上勢は、安東氏、由利党の応援を得て総勢1万余の軍勢で大森城に攻め寄せた。康道は800人の軍勢でこれに対した。小野寺勢は城兵を三方に配備して最上勢を迎え撃った。最上勢は弓・鉄砲を射かけて攻め寄せ、たちまち町構に乱入した。ここを破られれば一大事と、城将小野寺康道は大長刀をもって敵勢に斬り込んだ。最上勢は必死の勢いの康道らに切り立てられ、一旦、外曲輪まで兵を引いた。

大森城の周囲は固く囲まれ、横手の本城や他の支城とも分断され孤立してしまった。戦いのさなか、本城への密使の役を、城主康道の側室の「おかね」が自ずからかって出た。おかねは、百姓の女房に姿を変え、敵中を通り抜け、横手本城城主の義道のもとにたどり着き、その役目を果たした。しかしその帰途で最上方に捕らえられ、斬罪にされてしまった。しかし、このおかねの働きで、横手本城から300余騎の援軍が大森城に入った。

また、最上勢は、大手清水口方面から鉄砲をうちかけ、小野寺勢は総攻撃と思い一人残らず清水口に出張った。最上勢はこの機をとらえ、手薄になった本郭西側の険しい斜面の柵を破り、本郭に攻め入らんとした。

ところが城中の女たち二三百人ほどが、かねて用意の大石、小石を落とし投げつけ、必死の防戦を行った。このとき、女たちは弓を使った「柴礫」を使ったと云い、これにより寄せては20人余の戦死者を出し、負傷者も多く、我先に柵の外へ逃げ出したと云う。この場所は今も「女礫」と呼ばれている。

小野寺康道は最上勢を斥けたとはいえ、敵は大軍であり落城は必至だった。しかし、兄義道らの小野寺勢は柳田城や吉田城を拠点として徹底抗戦し、両軍入り乱れての激戦となり、勝敗はなかなか決しなかった。そこへ、奥州の戦乱は中止すべしとの家康の命令がとどき、双方和睦して兵を引いた。

この関ヶ原時の合戦では、小野寺義道としては、徳川家康に敵対したという意識はなく、最上勢と戦ったのは、御政道に関わるものではないと弁明し、領地の削減はやむなしとしても御家継続はなるものと思っていたようだ。しかし、結果は領地没収・城地追放のうえ、石見国に流罪という処分に決した。

ここに、小野寺氏の運命は極まった。最上氏との対立はあったとはいえ、大所高所から政局を見る目をもたなかった義道の状況判断の甘さがもたらした結果でもあった。鎌倉以来の名門で仙北屋形と称され、戦国大名として威勢を張った出羽小野寺氏は没落した。