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江戸で将軍上洛の警護を目的として浪士組が結成されたが、そこには清河八郎による「尊王攘夷の先鋒」という陰謀があった。これに反発した浪士たちは京都に残り新選組を結成した。清河は暗殺され、清河の同志達も次々と捕縛されたため、残った浪士組は組織目的を失い、幕府は浪士組を新徴組として再組織した。

新徴組は、幕府より江戸市中警護、海防警備の命令を受け、元治元年(1864)には庄内藩の御預かりとなった。

新徴組は揃いの朱の陣笠を被り、夜には庄内藩酒井家の紋所であるかたばみの提灯を下げて市中を練り歩いた。そして、五十人二組となって昼夜交代で毎日市中の巡回を始めると、江戸の治安が次第に回復していったため、江戸市民からは、
「酒井なければお江戸はたたぬ、おまわりさんには泣く子も黙る」とまで謳われるようになった。
しかしその一方、隊士たちが見巡りの途中、大店や芝居小屋へ大勢で上がりこんでは無銭飲食や遊興を受けるなどの狼藉も目に余ったため、
「うわばみよりもかたばみこわい」と恐れられもした。

慶応3年(1867)10月、朝廷より薩摩藩と長州藩へ討幕の密勅が下されると、薩摩、長州、土佐藩は、倒幕運動に動き始めた。薩摩藩邸には、勤皇派浪士が集まり、西郷隆盛の意を受けて、関東各所で騒擾工作が行われるようになった。その目的は、幕府を挑発し開戦に持ち込むことにあった。

後に薩摩御用盗と呼ばれるこれらの面々は、江戸市中を取り締まる新徴組と抗争を繰り広げた。慶応4年(1868)12月、新徴組と庄内藩の屯所が相次いで御用盗に襲撃された。このような状況下で、幕府は討ち入りをも辞さない強硬手段を決意し、庄内藩や、上山藩、鯖江藩、岩槻藩、出羽松山藩に、薩摩藩邸の不逞浪士の捕縛を命じた。

幕府勢は不逞浪士の引き渡しを求めたが薩摩藩はこれを拒否し、幕府方は討ち入りを決行。庄内藩兵は砲撃を始め、同時に薩摩藩邸に討ち入りを開始した。迎え撃つ薩摩藩邸やお抱え浪士たちも奮戦するが、旧幕府側の砲撃や浪士らの放火によって薩摩藩邸はいたるところで延焼した。火災に紛れて藩邸を逃れ出た浪士らは、道筋の民家に放火するなど追跡を攪乱しながら逃走した。この焼き討ちによって品川などで火災が一日中続いた。

これが戊辰戦争の発端となり、その後、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北し将軍徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎すると、江戸にいた庄内藩士たちは自領に引き上げることになり、すでに藩士と同格扱いとなっていた新徴組隊士136名とその家族311名が庄内入りした。

藩では、湯田川温泉の隼人旅館に組役所を置き、隊士と家族らは湯田川温泉の宿屋と、民家37軒に分宿させ、鶴岡から藩の役人が出張して監督に当たった。

西軍は越後街道を北上し、8月23日には藩境の鼠ヶ関口で戦闘が始まり、26日には小名部口踏切峠でも戦闘が始まった。湯田川に屯所を置く新徴組も、おそらくこれらの藩境の戦いを戦ったと思われる。庄内藩は地の利を生かし国境を守り切った。

しかし9月11日に西軍はその矛先を関川口に向け、庄内勢が待ち受ける雷峠を避けて迂回し、山を越えて関川を奇襲した。この時の戦いは非常に激しかったようで、戦いの最中、村は庄内勢、西軍の双方から火をかけられ、村の多くが焼失し、関川村は占領された。また焼け残った民家には西軍が押し入り、略奪を行い、その時の刀傷が残っている。庄内勢は一旦撤退し、越沢から数度にわたり関川奪還を試みた。しかし9月27日に庄内藩は降伏、庄内藩の戊辰戦争は終結した。

その後の明治5年(1872)、旧庄内藩士3000人が、家禄廃止に伴い窮乏したことから「松ヶ岡開墾事業」として荒地の開墾に取り組んだ。この事業は、旧庄内藩士らが一丸となって始めた事業で、旧藩主酒井忠発が開墾地を「松ヶ岡」と命名し、かつての藩主の「御茶屋」をこの地に「本陣」として移築し、それを事務所とした。

新徴組隊士65名も、旧藩士3千人とともに参加した。しかし、関東出身の浪士が多い新徴組には、東北の開拓は厳しく脱走者が相次ぎ、十年後の明治14年の再調査では、新徴組出身者は11名のみに減少していた。

この新徴組には、現在の群馬県沼田市の剣術道場に生まれた、中澤琴という女性剣士が在籍し活躍した。幼少から剣術、とくに長刀に優れ、兄とともに浪士組に参加した。のちに新徴組に参加、薩摩藩邸焼き討ちにも参加し、その後、庄内藩で各地を転戦し、ある時は、官軍十数人に囲まれたものの、2、3人を切り伏せ、たじろぐ敵中を突破して逃げ延びたという。

明治維新後は、兄と共に開墾事業にも携わったようだが、明治7年(1874)、故郷へ戻り、生涯独身を通したようだ。彼女は、酒を飲むと、詩を吟じ、剣舞もよく舞ったと伝えられる。昭和2年(1927)天寿を全うし没した。