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金峯山は、庄内平野の南縁にそびえる海抜458mの、四季それぞれの趣を見せる名峰である。山頂からは鳥海山、出羽三山、日本海が見渡され、また眼下には鶴岡周辺の広々とした美田や点在する集落など、壮大な景観が広がる。国指定名勝として、庄内海浜県立自然公園にも指定されている。

金峯山の歴史は古く、天智天皇の時代(671頃)、役小角が山頂に金剛蔵王権現を祀ったのが始まりと伝えられる。

役小角は、舒明天皇6年(634)に、現在の奈良県御所市茅原で生まれたとされ、生誕の地とされる場所には、吉祥草寺が建立されている。17歳の時に孔雀明王の呪法を学び、その後、葛城山(現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。

小角は、サンスクリットの優婆塞(うばそく)であり、僧侶ではなく「在家仏教信者」として修行した者を表す。当時の仏教は、弘法大師などがもたらした、根源的な悟りを第一目的にするのでなく、道教的、密教的な苦修練行によって、超自然的能力の獲得をこそ主目的としていたようだ。

役小角にまつわる伝説は、大変多く残されており、それらが記された書物なども数多く伝わっている。小角は、不思議な力を駆使して空を、野山を駆けめぐり、鬼神を自在にあやつった人とされ、数々の不可思議な事績をのこした偉大な修行者、修験道の開祖として崇められてきた。

文武天皇の頃、小角は葛城山に住み、鬼神をも使役し、水を汲んだり薪を採らせ、もし鬼神が命令に背くようならば、たちまち呪術によって身動きがとれないようにしてしまうなどと、世間の評判は高かった。しかし、文武天皇3年(699)、小角を師とする朝廷の呪術師に讒言され、小角は、遠島の刑に処せられた。

それによると、小角は、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。一言主はそれに耐えかね訴え出たというものだった。

小角は捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。役小角が実在の人物であったことを確認できる史料は、このことが記載された『続日本紀(しょくにほんぎ)』のみで、しかもわずか数行でしかない。

鬼神をも使役することができる役小角は、流刑になっても、伊豆の大島におとなしくしているわけもなく、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれている。また同様に島を抜け出して熱海市の東部にあたる伊豆山で修行し、また伊豆山温泉の源泉である走り湯を発見したとされる。

鳥海山では、山上に霊鳥が生息する「鳥の海」を見て「鳥海山」と名づけ、また山の神の命により、山中に出没する鬼を退治し開山したとされ、山中に神の眷属である三十六王子を祀り山の守護神としたという。また、蜂子皇子が開いた出羽三山にも来山し修業を積んだと伝えられる。

伊豆大島へ流された2年後の大宝元年(701)に赦され、茅原に帰ったが、同年、箕面山瀧安寺の奥の院にあたる天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。享年68歳、山頂には廟が建てられている。

この出羽の金峯山は、その昔は金峯三山と言い、古来より信仰の山として、金峯山山頂に本殿があり、金峯山全域に社殿が点在する。大同年間(806~10)、山頂にはじめて社殿が創建され、承暦年間(990~95)、大和国宇多郡の丹波守盛宗が出羽国に移る際に吉野の金峯山の神を勧請したと伝える。

奥州藤原氏はじめ歴代の領主が崇敬し、江戸時代には庄内藩の祈願所とされた。神仏習合の時代には真言宗の修験道場として栄えていた。金峯山の周囲の虚空蔵山、熊野長峰を含めた3山が熊野三所権現となった。さらに母狩山から摩耶山にいたる広大な山域は、逆峰修験の場となった。明治の神仏分離までは金峯山蔵王権現と称した。

山頂の本殿は、承暦年間(990~95)、勅命により造営されてより代々修復され、久安6年(1150)に藤原秀衡が社殿を再建し、慶長13年(1608)には最上義光が大修復を行っている。その後も、元文元年(1736)と明和5年(1768)には庄内藩の酒井家が修復、又近年では大正11年(1922)に修復されている。

江戸時代初期の様式がよく残っており、近世初期の建築物として、また建立後の時代変遷の確認できる点でも価値が高く、東北地方の修験道の数少ない遺構として、国の重要文化財に指定されている。