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長慶天皇(上皇)は、崩御するまでの間、南朝勢の協力を求めて各地を潜幸したという伝説があり、特に南朝勢力の雄である南部氏が支配する北奥羽の地には多くの伝説が残っている。

南北朝期には、南部氏は八戸南部氏が宗家であり、その中心は八戸の根城だった。根城は、元弘3年(1333)北畠顕家が陸奥国司として後醍醐天皇の皇子義良親王を奉じて奥州に下向した際に、南部師行が同行し、翌年の建武元年(1334)、八戸の地に築城し、奥州における南朝方の拠点となる城であることから「根城」と命名したという。

東北地方は、南北朝期には、北畠顕家らの活躍により南朝方が優勢で、一時は、顕家が率いる陸奥の南朝勢が、足利尊氏を京都から追い出すほどの勢いだった。北畠顕家とともに足利尊氏追討の遠征軍に参加した南部師行は、延元3年(1338)、和泉の石津の戦いで戦死した。それ以降、次第に北朝方が優勢になり、南朝二代天皇の後村上天皇の時代には、奥州においても南朝方はしだいに追い詰められていった。

南部師行の後を継いだ政長は、津軽北朝方の中心である曾我氏と抗争を繰り返し、顕家のあとを受けて鎮守府将軍、陸奥介として新しく赴任してきた北畠顕信を支え、奥州の南朝勢力の維持につとめた。

正平23年(応安元年、1368)3月、後村上天皇の崩御により長慶天皇が南朝第三代天皇となったが、北朝に対しては強硬派の人物であったと考えられ、それまで幾度かあった和睦交渉は途絶し、そのためもあり、北朝方からの南朝勢力の切り崩し、攻撃を受けて、結局は、弘和3年(1383)、穏健派の後亀山天皇に譲位した。

この時期に、長慶天皇(上皇)が、南部氏が支配する津軽の地を訪れたとの伝承は、史実と考えられる。

八戸にある南部の総鎮守の櫛引八幡宮には、国宝の赤糸威鎧と白糸威褄取鎧の2領が伝えられている。赤糸威鎧は、大袖と兜に菊一文字の飾金物があり、「菊一文字の鎧兜」として有名であり、長慶天皇の所領とも伝えられている。また白糸威褄取鎧は紫・薄紫・黄・萌黄・紅糸をもって褄取りを施した白糸の威毛の鎧で、南部信光が後村上天皇から拝領したものと伝えられる。

青森県南部町には、「長谷の森林公園」があり、園地には8千本のぼたんが植えられており、「長谷のぼたん園」として多くの観光客が訪れる。この地は「長慶天皇ご潜幸の地」とされ、八戸根城の南部氏が、仮の御所を造営し住まわせたと伝える。

しかし、この時期、南朝方として活躍した八戸南部氏は、北朝方が優勢になるにつれ、南部氏の中心は次第に三戸南部氏に移りつつあった。八戸南部氏の第8代当主の南部政光は、明徳4年(1393)南北朝合一がされると、甥の長経に八戸の地を譲り、七戸城に移った。

この地には、「南部せんべい」の由来として次のような話が伝えられる。

長慶天皇がこの地に滞在し食事に困った時、家臣の赤松助左衛門が近くの農家からそば粉とごまを手に入れ、自分の鉄兜を鍋の代わりにして焼き上げたものを天皇に食事として出した。これが後の「南部せんべい」の始まりであるという。

恐らく南朝方の雄の南部氏であっても、この時期には長慶天皇に対しては北朝方の目を伺いながら目立たないように対応していた様子がうかがえ、この後の長慶天皇の伝説は、時系列的に、七戸周辺に、さらには北畠氏の浪岡周辺にと移っていったのかもしれない。