2021/03/11

東日本大震災から丸10年が経過した。これまで毎年、3月11日には、被災地の慰霊と、復興を見守るために各地を撮影取材を行ってきた。10年目の慰霊の旅で、とりあえず、3月11日の大震災の慰霊は一旦終わらせようと思っていた。もちろん、今後は3・11に関わらず、特に復興が進んでいない、福島県浜通りの原発周辺などを、任意の時期に回るつもりだ。

今回、気仙沼市と大島を結ぶ橋ができて、気仙沼湾を横断する橋もできたというニュースを聞き、10年目の慰霊を、まだ訪れていなかった気仙沼の大島と、慰霊の旅の始まりの地である、陸前高田市を訪れることにした。前日、遅く仙台を出発し、夜道を気仙沼大島へと走った。目的地は大島の南端の竜舞崎だ。この地の日の出を拝み、今回の慰霊の始まりとするつもりだった。

真夜中に竜舞崎の駐車場につき、そのまま仮眠をし、東の方向が白み始めたころ、撮影ポイントを探し、岬の遊歩道を歩いてみた。岬の木々は、高い位置で折れて枯死しているものが多い。どうやら大津波は、この岬全体を乗り越えたようだ。大島は、大津波により分断されたようだ。

夜が明ける。わずかに太陽の先が見えた。太陽は何事もなかったかのようにスルスルと上っていく。海面に太陽の道が伸びる。この大島では30人を超える犠牲者が出たはずだ。上る太陽に手を合わせ、10年目の慰霊の祈りをささげた。

竜舞崎からみちびき地蔵へ向かった。この地蔵は、死者の魂を極楽浄土へ導く地蔵との伝承があり、古くから、地元の方々からの信仰を集めていたようだ。今回の大震災で被災したが、多くの方々の協力により再建されたらしい。この地蔵には次のような言い伝えが伝えられている。

この地の母子が、家へ帰る途中、このみちびき地蔵の脇を通りかかった。漁を終えた母親は、獲った魚と幼い息子・浜吉の手を引いて家路を急いでいた。この地蔵には「死ぬ人が前日にお参りに来る」という言い伝えがあったが、多くの人々が地蔵の前に並んでおり、一人ひとりふわふわ浮かび上がりながら地蔵を拝み、空へ消えていく姿が見えた。しかも、人々に混じって馬までも見えた。

母親は、「これは明日何かが起こるのかもしれない・・・」と恐ろしい気持ちになった。翌日は大潮の日だったが、いつになく遠くまで潮が引いており、満潮近くの時間になっても潮が満ちる気配はなかった。村中の人々が浜辺で楽しそうに海藻を取っていた。そんな時、急に大きな津波が押し寄せてきた。

この母親の一家は、いち早く小高い丘へ駆け上がり難を逃れたが、61人の人が亡くなり、⒍頭の馬が波に呑まれた。母親は慄きながらも、前日見た光景はこのことだったのだと、改めて納得し、地蔵への信仰を篤いものにしたという。

この話は、かつてテレビの「日本昔話」でも紹介されたようだが、私は伝説や昔話には、先人の多くの教えや警告が含まれていると常に思っているのだが、現代の方々の多くが、それを受け止めているだろうか。新しく再建されたみちびき地蔵に手を合わせた。

大島で最も高い亀山の展望台に登り、南の方を見れば、西に小さな港があり、東に小さな入り江がある。津波は最初は東側を襲い、島を横断する道路沿いに進み、島を乗り越え、西側からの大津波と合流し渦をまいた。恐らくは多くの人々がここで犠牲になったのかもしれない。この亀山の中腹の古社大島神社に参詣し、この先のこの島の方々の多幸を祈った。

完成して間もない大島大橋を通り、気仙沼湾横断橋を撮影し、陸前高田市に向かった。