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昨日は、青森県の浪岡を中心に、長慶天皇と北畠氏の伝説を訪ね、七戸町に向かい、長慶天皇の伝説が残る見町観音堂など数か所をまわった。

見町観音堂は、南朝の雄の南部政光が、長慶天皇の菩提を弔うために建てたと伝えられる。堂は、度重なる修理によって当初の姿は大分失われてはいるが、技法の上では、かなり古い箇所もいくつか残されており、内部の来迎柱廻りなどに当初の面影が残っているという。

また、絵馬や羽子板などが多く残されており、創建当時からのこの地域の人々からも厚く信仰されていたことが伺える。特に羽子板は、画風は中世風で、柄尻には菊紋を彫刻しているものもあり、長慶天皇との関りを強く示しているといえる。室町期を下らない時代のものも多くあり、これらは現存するわが国最古の羽子板とされる。

すでに午後6時を回っており、この日は、十和田市まで南下し、宿をとり、久方ぶりにまともな食事をとり、風呂に入り、布団でぐっすりと休んだ。朝は朝食もそこそこに宿を出て、ひたすら国道4号線を南下した。このまま仙台まで帰ろうかとも考えていたのだが、昨夜はゆっくり休めたこともあり、盛岡が近くなってくると、俄然、気力が充実してきた。以前から気になっていた雫石城のある雫石町に車を向けた。

雫石城は、現在は、主郭跡に八幡宮が祀られており、その他の城域は住宅地と畑になっており、城跡として見るべきものは多くはない。しかしこの雫石城は、平安時代末期に戸沢氏によって築城されたと伝えられる城だ。

戸沢氏は、文治5年(1189)の源頼朝による奥州征討に参陣し、その功により滴石荘、出羽国山本郡の地頭職に任じられた。南北朝時代には、戸沢氏は南朝方に属し、暦応3年(興国元年・1340)頃には、北畠顕信は雫石城を拠点とし、戸沢氏は北畠顕信の下で、三戸南部氏、和賀氏等とともに、斯波氏など陸奥の北朝勢力と戦った。

その後、南朝方の衰退により、戸沢氏は一族を率いて出羽国仙北郡の角館城に居城を移し、小勢力ながら安東氏や小野寺氏と争い、仙北郡に武威をはった。しかし、関ヶ原の戦い後には常陸へ移封され、その後は新庄に移り、新庄藩として明治まで続いた。

この日、もう一か所訪れたいところがあった。宮沢賢治ゆかりの南昌山だ。雫石から南に14、5kmのところにある、南昌山は、標高848.0mの山で、ピラミッド形の岩山だ。坂上田村麻呂の時代から霊山として敬われており、宮沢賢治が何度も訪れ、その作品の「銀河鉄道の夜」の舞台となっている。

宮沢賢治については、なんとなく「ファンタジー童話作家」のようなイメージを持っており、またその生き方は、童話作家としても、農業指導者としても、なにか中途半端なように感じていた。しかし、以前、花巻市の「猫の事務所」で、賢治の資料を見てから、自分の考えが少し違うかもと思い始めており、さらに賢治の最愛の妹トシとの死別に際しての「永訣の朝」を見て、強烈な印象を受けていた。今回の旅の最後に、南昌山があるのも何かの縁と感じ、南昌山に向かった。

山麓の田園から見る南昌山は、その特徴的な山容を美しく見せていた。賢治はこの地の親友健次郎の家を度々訪れ、一緒に南昌山で石の採取などをして遊んだようだが、その健次郎は、若くしてあっけなく亡くなり、その時以来、賢治の中では南昌山は異界の地になったのかもしれない。そして妹のトシの死後、「銀河鉄道の夜」を書き始め、銀河鉄道の出発点は、この南昌山の山頂となった。

山に分け入り、南昌山神社を過ぎ、小さな峠に出ると、そこから右側に南昌山の登山道がある。賢治ファンがそれなりに訪れるのだろうか、登山道はよく整備されている。勾配は結構きついのだが、階段状に整備された登山道のおかげで、比較的登りやすい。それでも旅の疲れもあり、あえぎながら、なんとか山頂についた。

この山頂こそが宮沢賢治の銀河鉄道の出発地なのだ。山頂には、古代の祭祀跡と思われる石組みがある。そしてふと思った。この地は端山信仰での、死者の魂があの世へ上る地なのだと。賢治の親友の健次郎も、妹のトシも、また賢治自身の魂も、この地からあの世へ旅立ったのではないかと。

南昌山を下り、国道4号線に出て、以前訪れた羅須地人協会の賢治像に挨拶をして、日暮れの道を南下した。宮沢賢治は、これまで私が思っていたような、ファンタジー童話作家などではなく、作品の中には賢治の死生観が込められているのだ。そう考えれば、未完の「銀河鉄道の夜」は、賢治の生前には終わるはずのない物語なのかもしれない。仙台までの長い道のりを、そんなことを考えながら走った。