文治5年(1189)、鎌倉の源頼朝により奥州藤原氏は攻められ滅亡した。しかし、平泉の遺臣三十六騎が、秀衡の妹の徳の前(別説では秀衡の後室の泉の方)を守護して平泉を逃れ、やがて酒田に落ち延びたとされる。
藤原泰衡には万寿という男子がいた。徳の前は、万寿とともに、戦火に燃える平泉を逃れ、三十六騎衆に守られながら、秋田の久保田から、さらに南下をし、羽黒山東麓の妹沢に隠れ住んだとされる。
羽黒山は奥州藤原氏の庇護を受けており、衆徒三千人を擁した修験道の山として、東北一帯に隠然たる勢力を保持していた。しかし源頼朝は、奥州藤原氏に代わり、羽黒に黄金堂を建立させるなど、奥羽経営のために手を伸ばしてきた。そのため、徳の前と三十六人衆は、最上川河口の袖の浦に逃れた。
徳の前は、酒田に泉流庵を結び、尼となり一族の菩提を弔いながら、泰衡の子の万寿を育て、建保五年(1217)、87歳で没した。三十六人衆は酒田に土着し、それぞれ廻船問屋を営み、酒田湊の基礎をつくった。
万寿は元服した後、泰高を名乗り、藤原氏再興を願い、平泉藤原氏の津軽の十三氏を頼り、その後、京都に上ったが、すでに時代は戻ることができない武家社会となり、藤原氏再興は果たせず、紀州の熊野新宮領に居した。その子孫が南北朝の天授三年(1377)、瀬戸内海の因島に移り住み、巻幡(まきはた)氏の祖となったとされる。
十三氏は、平泉藤原氏の二代基衡が、次男秀栄を、十三浦の福島城主安倍氏季の養子にやったもので、秀栄は十三湊の築港、造船、異国船との交易に力を注いだ。頼朝が奥州を平定したとき、秀栄は老齢で、自ら建立した檀林寺で仏門にあり、その子秀基が継いでいて罪なしとして、本領を安堵されていた。酒田に残った平泉の遺臣三十六人衆は、この十三氏の助力を得て、蝦夷地や西国との貿易を行い始めたのかもしれない。
酒田の北部は、古くから蝦夷勢力が強く、また平泉勢力による大河兼任の乱が勃発した地で、鎌倉の勢力が及びにくい地であり、また、庄内地域は、親平泉の羽黒山勢力が占めていた。酒田のそのような立地が、平泉滅亡後に政治的な背景を失ったにも拘らず、比較的自由に活動できた理由かもしれない。
三十六人衆は、南北朝期から戦国期にかけて、安東氏や戸沢氏のように、安倍氏や清原氏の支配地に入り込み、国人領主となる道もあったかもしれないが、酒田を中心としての、海運、水運による、経済的利権を拡大させることに勢力を傾注したようだ。場合によっては、時の領主と結びつき、水軍や海賊的な働きもしたかもしれない。
庄内が最上義光の支配下にあった時には、酒田の三十六人衆の粕谷家は、酒田湊の警備を命じられ、酒田湊収納米の受払いを担当し、船団を組んで上方での取引を行い、最上氏の経済を支えた。また、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、東国における船舶動静の監視役を命じられている。
また、慶長六年(1601)の、庄内における最上、上杉攻防戦では、三十六人衆は兵をまとめ吹浦に出陣し、仙北由利軍と戦っている。
その後、三十六人衆にも二木家や本間家などの新たなメンバーが加わり、藩政期に入ると、諸藩の蔵宿として、遠くは南部・加賀・松前藩、近くは庄内・松山・新庄・山形・上ノ山藩の御用をつとめるようになっていた。元和八年(1622)、酒井忠勝が信州松代から庄内十三万八千石に移封され、鶴岡に居城を構えた。当初は酒田の亀ケ崎城を居城にしようとしたが、酒田は三十六人衆の治める自治都市的要素が強かったことから、鶴岡を選んだともいわれる。
寛文年間(1661~1673)、幕府の命により河村瑞賢が西廻り航路開拓と、それに連動した最上川舟運の隆盛は、湊町酒田を一層活性化させた。
明和年間(1764~72)、庄内藩は日光東照宮修理などで、藩財政は窮乏し、藩主が本国に帰国する経費すら調達できない状況に到った。庄内藩は藩の財政再建を目指して、酒田の本間家当主の光丘を登用して財政改革を委任した。
光丘は、藩士・農民などの借財の一切を肩代わりし、江戸藩邸の支出を抑えるなど出費の無駄を省き、借金の返済計画を立案・実行させた。また、飢饉に備え備荒籾(備蓄米)を蓄えるなど、農村改革を断行した。また、貧農には手当米を与え、放棄され荒廃した公有地で耕作させるなどを行い、それらの諸政策は次第に実を結び、藩財政は好転し、藩の二十万両にも及ぶ借金全てを返還することができた。
このようなことから、庄内では「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」と戯れ歌も歌われるようになり、酒田は全国に名を知られるようになった。
この酒田の開祖ともいえる、平泉からこの地におちてきた徳尼公の木像は、宝暦元年(1751)に焼失したが、明和元年(1764)、本間光丘が新たに京都で作らせ、廟におさめられ、今にその伝説を伝えている。