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秋保は仙台の西部に位置し、多賀城が設置されると、この地の温泉は、「名取の御湯」と呼ばれるようになり、多賀国府に派遣されてくる国府官人たちの保養・遊楽の地となり、遠く都にも知られるようになった。湯元を中心に小集落が形成されはじめ、坂上田村麻呂や慈覚大師などが訪れ、それに関わる遺跡や伝説も多く残る。その後、中央では武士の時代が始まり、平氏が台頭し、その平氏は源氏により滅亡し、本格的な武家政治が始まることになる。

この頃、秋保郷に平清盛の子重盛「小松内府」を祖とする平長基が、この地に落ちのびて来て、秋保氏の祖となったといわれている。宝治元年(1247)の三浦氏の乱で三浦一族が滅亡し、名取郡は執権北条氏の所領となり、このとき、長基の子の基盛が秋保の地頭代になったと考えられる。

七代目の盛定の時、秋保5ケ村を領することを、時の奥州探題から承認され、これ以降、秋保氏を名乗るようになった。秋保氏は、基盛が長袋に最初に構えた楯山城を戦いの城とし、名取川をはさんだ北側の台地にある長楯城を居館としていたと思われる。

楯山城は、南北に長い山頂部を城域とした山城で、南北二段に分かれている。西端は南北に土塁が続き、南側は櫓台として一段小高く残してある。長楯城は、名取川と獺沢の合流地点に突き出した舌状台地に立地し、主郭まで三重の土塁が巡らされている。東西南方向は、断崖で、天然の要害となっている。

戦国期に入っても秋保郷は比較的平穏だったようだが、伝承では、十五代盛房のときの明応9年(1500)、名取大曲の長井某の奇襲を受け楯山城を放棄、山形の最上義守を頼って逃亡、12年後、村民の援助を得て楯山城奪回に成功したとある。しかしこれは年代的にあわず、隣接する国分氏家中との小競り合いか、その後の天文の乱における争いかもしれない。

盛房の頃、すでに仙台周辺まで伊達氏の勢力が伸びて来ていたが、十六代則盛のとき、伊達氏の内紛の天文の乱がおき、秋保氏もこの騒乱に巻き込まれ、この時期から伊達氏との主従関係が発生した。最上氏とは姻戚関係にあり比較的近い関係だったが、天文の乱以降、次第に最上氏とは対立関係になっていったようだ。

秋保氏は、長袋を中心として、二口街道の要所要所に館城を配置し敵の侵入に備えた。馬場地区に馬場氏、境野・新川地区に境野氏をそれぞれ分家して配置し、伊達政宗が最上義光と対立するようになってからは、 山形最上氏に対する二口峠の境界警備という重責を担った。

伊達政宗が岩出山に本拠を移す頃には、秋保氏は外様家臣の格式から家格御一家としての格式となったが、しかし、関ヶ原の戦いののち、政宗は仙台へと城下を移し、秋保郷は仙台藩の直轄領となる。これに伴い秋保氏は、刈田郡小村崎村へと所替えを命じられ秋保をはなれたが、ほどなく秋保の邑主となり戻っている。

七代藩主伊達重村のとき、秋保氏二十三代目の秋保氏盛が家老職に抜擢され、一躍、秋保氏の名声は高まった。現在の「館」や「町」という集落は、氏盛のときに整備され、中世から明治維新まで、ほぼ一貫して秋保を治めた秋保氏と秋保郷の結びつきは極めて強く、町内の史跡・社寺・町並みなどその多くが秋保氏関連のものとなっている。