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戸沢氏の出自については様々な説があるが、現在の岩手県雫石町に小さな領地を有していた開発領主だったようだ。古くは安倍氏が奥六郡を支配しており、雫石はその支配下にあり、また、安倍頼時の六男の北浦六郎重任が支配していた出羽の北浦地方にも拠点があったようで、戸沢氏は安倍氏の一族だったと推測する。

戸沢氏は古くは『衡』の通字を使用していることから、前九年・後三年の役後に、平泉藤原氏の郎党となることで、雫石の地を安堵されていたのだろう。その後の奥州合戦でも、平泉勢として積極的に加わらなかったことで、辛うじて存続を許されたようだ。しかし、奥羽の地には関東御家人が入り、戸沢氏はその圧力の中で領地を確保し、氏神をまつり、一族の団結を固めつつ勢力拡大につとめたものと思われる。

南北朝期には戸沢氏は南朝方として、北畠顕信(顕家の弟)の下で、葛西・和賀・南部氏らとともに戦った。しかし、顕信と石塔氏との戦いは顕信軍の敗北に終わり、顕信は一時雫石城に入り勢力挽回を図ったが、ついに出羽へと去ることになり、戸沢氏も顕信とともに出羽に移った。

出羽に入った戸沢氏は、門屋城を修築し拠点とした。門屋城は東側を流れる檜木内川と南側を流れる高野川が合流する比高約20mの地点に位置している。高い切岸と空堀で仕切られた多郭式の城館である。城域は東西約250m、南北約350mで、主郭、西郭、中郭、北郭などの郭によって構成される。

出羽に入った戸沢氏は、出羽北浦地方の地域支配を確実なものとし、勢力拡大に努めた。そのころ、出羽仙北三郡に勢力を振るっていたのは小野寺氏だった。また、南部氏も勢力拡大策をとり、奥羽山脈を越えて山本郡への進出を開始し、応永17年(1410)には、秋田郡から安東氏も進出し南部氏と大激戦を展開した。

この事態を警戒した小野寺氏は、南部氏追放を策し、寛正6年(1465)、大曲の南部氏代官の久慈氏をやぶり南部領に追放した。その後、南部氏と4年間にわたり争い、ついに南部氏を破り、出羽仙北地方は小野寺氏が領有するところとなり、小野寺氏の全盛時代が到来した。

戸沢氏の北浦地方は、地理的に南部氏と小野寺氏の争乱の狭間にあったこともあり、楢岡氏と同盟を組んで、中立を維持しながら、領国経営に専念していたようだ。戸沢氏は門屋城を拠点とし、15世紀前半には門屋城を囲むように小山田城、などを築き、一族・家臣を配置した。

門屋地方を固めた戸沢氏は、南部・小野寺両氏の抗争に関与せず、周囲の豪族と血縁関係を深め安定した勢力に成長していった。力を蓄えた戸沢氏は、南部氏の勢力が仙北地方から払拭された時期の応仁2年(1468)頃の秀盛の時期に角館城に本拠城を移した。

角館城は、標高166mの古城山に位置し、急峻な丘陵上にある。城の北東側には院内川が、北西側には檜木内川が流れ、北側は両河川により守られている。山頂の主郭は長軸100mほどもあり、かなり広大な平場になっている。

角館に進出した戸沢氏は、安東氏との対決を迫られることになる。明応5年(1496)戸沢秀盛は、安東氏と唐松野で戦い激戦となり、両軍ともに有力武将の戦死が相次いだ。

ついで、永正年間(1504~21)になると、小野寺氏との対立が決定的となり、小野寺氏との間で激戦が展開されたが、楢岡氏・六郷氏らの仲介で和睦した。しかし安東氏との合戦が再び始まる中の享禄2年(1529)、戸沢氏の版図拡大につとめた秀盛が死去した。あとにはわずか5歳の道盛が残され、叔父の淀川城主の忠盛が角館に移り後見役となった。

ところが忠盛は宗家簒奪を企て、身の危険を感じた道盛とその母は角館を脱出し身を隠した。結局、忠盛は家臣たちの支持を得られず、道盛の外戚である楢岡氏を中心に六郷・本堂・白岩氏らが結束して角館に圧力をかけ、天文元年(1532)、忠盛は淀川城に退去した。

この危機を切り抜けたことで家臣団の結束は強まり、以後、戸沢氏は領国の拡大と安定を目ざし、近隣の諸大名と激戦を繰り広げることになる。