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南北朝期のはじめ、奥州は南朝方の勢力が強かったことから、幕府方=北朝方は、石塔・吉良.畠山・斯波氏を四探題として奥州に送り込んだ。文和三年(1354)頃には、斯波家兼は吉良満家とともに奥州管領として奥州に地歩を築くことになる。

その後の観応の擾乱では、足利尊氏と直義が争い、この擾乱で足利勢力は二分され、吉良貞家は同じ足利方の一方の管領である畠山氏と戦いこれを破った。そして、この騒ぎのなかで北畠顕信が勢力を盛りかえし、多賀国府を奪回したが、吉良方の攻撃によって敗れた顕信は出羽に逃走した。そのため、出羽が南北両朝勢力対立の場になった。

そして、南北朝時代後半の奥州は、四管領の勢力争いが展開され、斯波氏が最終的勝利者となった。このような経過のなかで、延文元年(1356)、家兼の次男兼頼が山形盆地に入部した。

山形に入部した兼頼は、山寺根本中堂の再建事業に着手、人心収攬をはかり、山形城を築き根拠地にした。兼頼が入部した当時、舞鶴山には北畠天童丸がおり、周囲も南朝方に好意を寄せるなど、状況は必ずしも北朝方にとって楽観できるものではなかった。そのため、兼頼は南朝勢力に対し、さまざまに事前工作を行い、山形盆地の南朝方の最大勢力である寒河江大江氏と最上川を挟んで対峙した。

正平二十三年(1367)、鎌倉公方足利基氏が死去し、さらに、同年将軍足利義詮が卒した。この機に乗じて越後に潜んでいた南朝方の新田義宗と脇屋義治が越後・上野両国の国境に挙兵した。この新田一族の蜂起に呼応して奥州の南朝方も各地に蜂起し、やがて、「漆川の戦い」が斯波・寒河江大江氏との間で展開された。漆川で両軍は激突し、斯波氏の圧倒的な軍事力と周到な戦略体制によって、袋のネズミとなった寒河江大江氏は壊滅的敗北を喫し、出羽の南朝勢力は崩壊した。

敗れた大江氏は応安六年(1373)北朝方に降り、ここに出羽国内の南北朝の対立は北朝方の勝利をもって終焉した。兼頼は内乱がおさまったあともそのまま山形に定着し、名も土地の名をとって斯波から最上と改め、四囲に勢力を拡大していった。

最上氏は、庶子を各地に分封することでの勢力を拡大していった。二代直家は、長男満直に最上家を相続させて山形に、次男頼直を里見氏の養子に入れ天童に置き天童氏の祖とし、三男氏直は黒川に、四男義直は高櫛に、五男兼直を蟹沢に、六男兼義を成沢にそれぞれ置き、最上家庶流を立てさせた。こうした庶子家がのちに最上氏の有力家臣団として掌握されていった。

こうした政策により、最上川以東の村山地方一帯は最上一族が蟠拠する状態となり、一方、天童頼直も庶子たちを東根・鷹巣・上山に分封し、最上兼義は子の満久を最上川の要衝清水に配し、最上氏の勢力は新庄盆地にまで拡大していった。

その後最上氏は、寒河江大江氏と姻戚関係を結ぶなど、血縁的結合から地縁的・党的結合へと移行しつつあり、最上氏と天童氏の勢力が拮抗するなど、最上氏における惣領制は希薄になった。

この時期、伊達氏は置賜に進出し勢力を拡大し、至徳二年(1385)、長井荘は略奪され長井氏は滅亡の運命となった。長井氏を滅ぼして置賜郡を掌握した伊達氏は米沢を本拠とし、奥州の戦国大名へと成長していくのである。

その後の文明十一年(1479)、伊達稙宗は最上川に沿って村山郡に侵入し、寒河江城を攻撃したが大江氏一族の奮戦によって撃退された。しかし永正十一年(1514)、伊達稙宗は上山城と長谷堂城を襲撃した。このとき、最上義定は寒河江大江氏一族の応援を得て応戦したが、左沢城主大江政周は戦死し、そのほか楯岡・長瀞・山辺・古川以下一千余名も討死して大敗した。勝利に乗じた伊達軍は山形城から二里のところまで迫ったため、最上義定は山形城を逃れて中野城に退いた。

翌年、稙宗は最上義定と和睦し、稙宗の妹を義定に嫁がせた。義定は子のないまま永正十七年(1520)に死去した。そのため山形城は伊達氏の監督下に置かれることになった。このような情勢に対して、反伊達派の上山城主里見義房を中心に土豪たちが反抗し、各地に挙兵するに至った。その中心となったのは上山城主里見義房で、これに応じて天童・高櫛・寒河江の諸氏も蜂起した。伊達稙宗は兵を率いて上山城を攻め落すと山形城に入り、周辺の城砦を占領した。

最上武士団の執拗な抵抗により、伊達稙宗は強硬な最上領国化を避け、大永二年(1522)、最上一族で中野義清の二男義守が最上宗家の後嗣に定められたが、最上氏は依然として伊達氏の支配下にあり、そのため、最上武士団の執拗な抵抗は続けられた。

その後の天文十一年(1542)、伊達家において稙宗とその長男晴宗との対立が表面化し、「天文の乱」が起こった。最上義守は稙宗を援けて置賜に出兵し、晴宗方を攻めて上長井・下長井の全域を制圧した。もちろん、義守の稙宗支援は伊達領出兵の口実に過ぎず、その後、晴宗方が優勢になると稙宗を見限って晴宗に味方している。この乱を契機に、義守は伊達氏からの圧力を脱し、その後の最上氏による出羽統一に続くことになる。

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