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福島県鏡石町に鏡沼(影沼)という沼がある。この地には、阿武隈川の支流の釈迦堂川が流れ、奥州街道が通っている。古くは大小の湖沼と湿地があり、一種の蜃気楼現象が現れ、道行く人が水中を歩くように見えることで有名であった。

江戸時代元禄期に、松尾芭蕉はこの地を通り、奥の細道に
「かげ沼と云う所を行に、今日は空曇りて物陰うつらず」
とあり、蜃気楼現象は現れなかったようだ。

この鏡沼には、その名の由来として、次のような話が伝えられている。

和田義盛の甥の和田平太胤長は、北条氏に背き、福島県岩瀬郡に配流され処刑された。夫の身を案じた妻の天留(てる)は、鎌倉よりこの地に到り、里人に夫の死を知らされ、鏡をいだき沼に入水して果てた。その時天留が胸に抱いていた鏡が沼の底で光り輝いていたことから、以来この沼は鏡沼と呼ばれるようになったという。

建久10年(1199)、源頼朝が没し、18歳の嫡男頼家がその跡を継ぎ、比企氏らと側近政治を行った。これに対し北条氏らは合議制を主張し対立し、結局頼家は、北条氏により暗殺され、北条氏を後ろ盾として、源実朝が三代将軍となった。

これに対して、建保元年(1213)、信濃源氏の泉親衡、和田義盛の甥の胤長らが、頼家の子の千寿丸を擁して執権北条義時に対して謀反を企てた。しかしこれは発覚し、関与した者はことごとく捕らえられた。

和田氏一族の長でもある和田義盛は、胤長の赦免を願い出たが、胤長は事件の首謀者であるためとし拒絶され、和田一族の前で縄で縛りあげられ引き立てられ、陸奥岩瀬郡へ配流された。また胤長の6歳になる娘が、悲しみのあまり病になり、息を引き取った。和田一族は胤長の処分を決めた執権北条義時を深く恨み、その後の北条義時の和田義盛に対する挑発もあり、和田合戦につながっていく。

和田胤長は、和田合戦の後、配流地の福島県岩瀬郡で処刑され、この鏡沼の伝説に繋がっていく。

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