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伊達政宗の祖母で伊達晴宗の正室の久保姫は岩城左京太夫重隆の娘で、笑窪姫とも呼ばれていた絶世の美人だったという。

この時期、岩城氏の周囲には大勢力の伊達氏や佐竹氏・葦名氏がおり、さらに南奥では、白河・田村・二階堂・石川・相馬氏らが互いに覇を競っていた。

重隆は当初、白河結城氏と同盟関係を固めることにより、伊達稙宗の縁戚となって勢力が盛んとなっていた、相馬氏や田村氏と対抗しようとし、長女の久保姫と白河結城氏との縁組を進めていた。

これに対して、伊達稙宗は相馬重胤を介して稙宗の嫡男晴宗との縁組を申し入れていた。しかし岩城重隆はこれを拒否し、白河結城氏との縁組を進めていた。そのような中での天文3年(1534)、岩城氏と白河氏は、伊達・葦名・二階堂・石川諸氏の連合軍に攻められ敗れた。

一説によれば、久保姫を伊達晴宗が見初め、白河結城家へ輿入れするのを兵を率い待ち伏せし強奪したと言う。恐らくは、これも伊達氏連合軍の軍事行動の一環だったのかもしれない。

岩城重隆はもちろん激怒したが、伊達の手に渡った久保姫からは、再三にわたり晴宗を許してほしいと訴えられ、男子のない重隆のため、姫に男子が生まれた場合は、その第一子を岩城氏の跡目とすることを条件に和解したと伝えられる。

久保姫と晴宗は仲睦まじかったようで、六男五女をもうけ、長男の親隆は約束通り岩城氏の養子となり、次男輝宗が伊達家を継いだ。他の子供たちも、当時の名門留守、角田、石川、国分、二階堂、葦名、佐竹氏等の後嗣または妻となった。

天文11年(1542)、晴宗は弟実元の上杉との養子縁組の件で父稙宗と対立し、天文の乱が勃発した。この乱は奥羽諸将を巻き込んでの大乱となり、当初は稙宗方が優勢だったが、最終的には晴宗方の勝利となった。天文17年(1548)に将軍足利義輝の停戦命令を受けて和睦が成立。晴宗が家督を相続して十五代当主となり、本拠は米沢に移された。

この天文の乱の結果、稙宗方についた最上氏や相馬氏は伊達氏の支配から脱し、また仙道地域や南奥地域の諸将も独立色を強くしていった。また伊達家臣団の統制も緩んでいた。晴宗は伊達氏の最盛期への復活に尽力したが、永禄8年(1565)志半ばで隠居し、輝宗に跡をゆずり、久保姫とともに信夫郡の杉目城に隠居した。

隠居当初は、晴宗はその実権を手放さず、輝宗との間にいさかいが起きていたが、久保姫のとりなしなどもあったのだろう、後年は父子の関係は良好で、晴宗は仙道地域に睨みを利かせた。晩年には杉目城に一門や家来衆を招いてたびたび宴会を催し、その席では孫の梵天丸(のちの伊達政宗)が和歌を披露したとも伝えられる。

輝宗は出羽山形城主最上義守の娘(最上義光の妹)・義姫を娶り、永禄10年(1567)、米沢城で伊達政宗が生まれた。しかし政宗は、幼少時に疱瘡を患い、片目を失い、容貌が怪異であったためか、母の義姫からは疎んじられたという。

久保姫は、母の愛情の薄い孫の政宗を必死にかばい、幼児時代の養育はもっぱら久保姫が行ったという。また政宗を守るために毒見役さえ付けたという。政宗はこのことから祖母の久保姫を終生慕っていたようだ。

輝宗の跡を継いだ政宗は、破竹の勢いで仙道地域と会津地域を制覇し、南奥の覇者となった。しかし、天正19年(1591)、豊臣秀吉の奥州仕置により、それらの地域はすべて没収され、岩出山に移り、また、久保姫の実家の岩城氏をはじめとした南奥諸氏も、所領は没収され没落した。

久保姫(栽松院)も、伊達氏の新領の根白石村に移り、晩年をこの地で過ごし、文禄3年(1594)に没した。

栽松院の没後、伊達政宗は晴宗の墓所のある福島の宝積寺から僧能山を招き、屋敷跡に同名の宝積寺を建立した。根白石城跡の墓石は、享保17年(1732)五代藩主伊達吉村が建立した。

政宗は度々その宝積寺を詣でたが、遠隔地であったために、仙台入府後、仙台にその菩提寺を建てることを願っていた。仙台城本丸からその適地を求めると、東の高台に、付近を圧する常緑の大樹があり、この木が朝夕に遥拝する上で絶好の目当てとして、この地に久保姫の位牌寺として の栽松院を建立し、本丸から朝夕にこれを遥拝したと伝える。

毎年、久保姫の命日である6月9日には、歴代藩主は行列でこの木の下を通り追善供養するのが慣わしであった。この大樹には通路を塞ぐように大きな気根があり、あるとき、伊達家の家臣たちの間で、このままでは日傘をさして藩主がこの下を通ることができなくなるとのことで、この気根の内の一本を切る話が持ち上がった。このことを聞いた殿様は、藩祖政宗公が遥拝した木を、たとえ気根の一本であっても伐る事はまかりならぬと言い、日傘などささなくとも良いし、気根がさらに大きくなったら這って通ってもかまわぬと言ったという。

幕末の頃、この樫の大樹は雷にあい、さらに昭和には仙台空襲の戦火にもあい、かつては大の男5人が手を広げ巻くほどの大樹も、表皮を除きその幹の大部分を失った 。しかし次第に残った表皮が巻き取るように幹を形成し、今なお青々と境内に生き続けている。 推定樹齢1200年と言われ、仙台市の名木に指定され、3本の支柱に支えられながらも、久保姫と政宗の歴史を今に伝えている。

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