スポンサーリンク

昨日は山形県に入り、県南から山形市までの仕事をほぼ終え、この日は、新庄、庄内方面をまわる予定だった。日の長いことを幸いに、仕事の前に新庄周辺を数ヶ所回る予定だった。以前まわれなかった、鮭川村の「トトロの木」と「源氏館跡」を中心に、周辺をのんびりとまわるつもりだった。

昨夜は強い雨が降り、この日も朝から小雨模様ではあったが委細かまわず、新庄から、昨夜の内に地図で確認していた「トトロの木」に向った。本来は「曲川の大杉」というらしいのだが、あのアニメのトトロに出てくる大樹に似ているということで「トトロの木」として有名になったらしい。

鮭川村でもかなり奥まったところにあるのだが、アニメファンが訪れるのだろう、要所要所に小さな案内板があり、さほど迷うことも無くトトロの木を見渡せる場所についた。そこは、6、7台も停められるだろう駐車場になっており、そこから畑の中のトトロの木まで、簡単ながらコンクリート舗装がされている。鮭川村にとってはそれなりの観光資源なのだろう。

かつて、三春の滝桜を訪れたとき、そこにはお土産屋が軒を並べ、町とも言える巨大な駐車場があり、滝桜までのかつての山道も、両脇にびっしりとお土産屋が並び、ぞろぞろと蟻の群れのように滝桜を巡る行列にうんざりした覚えがある。それに比べれば、この地の「観光設備」は素朴なもので、多くの観光客を集めようとした村の意図とは違うのかもしれないが、叙情的な面でも「トトロの木」のすばらしさは損なわれてはいない。

そのトトロの木は、推定樹齢1000年の古木であるが、樹勢は極めて旺盛で、古木に時折感じる悲哀などはまるでなく、老獪なしたたかさの様なものも感じない。ひたすら雄雄しく、白髪の青年のような風貌である。

その幹にさわり、息吹に触れたかったが、周囲には保護のための柵と渡り板が回されている。根元の祠に手を合わせ耳を澄ましたが、小雨を含んだ葉から時折落ちる雨音が聞こえるだけだった。

トトロの木から源氏館跡に寄り、東にゆっくりと車を走らせていると「庭月観音堂」の表示板を目にした。この日は歴史散策の予定も特段立てているわけでもなく、仕事の時間まで時間はまだたっぷりとある。「庭月観音堂」は予定には入っていなかった。しかしこのような形で興味を引くものに出会うということは、これも何かの縁であり、私の旅の醍醐味でもある。

車を駐車場に停めて参道を歩き始めた。入り口には別当寺さんらしい建物があり、参道もよく整備されている。恐らくはその別当さんが立てたのだろう説明板によると、前を流れる鮭川では日本でも有数の規模の灯篭流しが行われるとあった。

また、この地域には縄文住居があったと云い、観音堂の脇には環状列石の遺跡もある。この庭月観音は、この地域の信仰の中心であり、文字として現れてはいない歴史が、DNAとして残るこの地域の「聖地」なのかもしれない。観音堂は仁王門?を持ち、どこか江戸期の神仏混交を強く感じさせるもので中々立派なものだ。この地の方々は、神や仏の中に、縄文期からの自然への畏敬や、祖先からのDNAを見て手を合せてきたのだろう。

境内を見回すと、やはり別当さんが立てた物だろう、説明板があった。それを見ると、この地には斯波氏の一人娘の光姫の伝説が書いてあった。これもまた嬉しい「発見」だった。また恐らくその伝説にも関わりがあるかもしれない「庭月城」がこの地の近くにあったらしい。

参道をゆっくり戻ってくると、別当さんらしい方が朝早い参道を清めていた。感謝を込めて挨拶をすると、「良いお参りでした」と返された。

庭月観音の別当さんから庭月館の場所を教えていただいてその地に向った。庭月観音堂と同じ、鮭川右岸の台地上にあるようで、さほどの距離ではないはずだ。

車をゆるゆると走らせると、「小十郎館」の標識を見つけた。しかしどうもこれは違うようだ。館跡は畑になっており、見渡したところ遺構らしいものは見当たらない。昨夜の雨で足場は悪く、藪の中に足を踏み入れるには覚悟が必要なようで早々に撤退した。

さらに道を北に走らせるとじきの所に、「庭月楯」の説明板があり、畑地の先にこんもりとした林があり、そこが館跡らしい。説明板によると、最後の館主の庭月広綱の古碑もあるらしい。「小十郎館」は、この庭月楯の郭の一つなのかもしれない。

小十郎館と同様足場は最悪だ。しかし遺構の状態もわからずに撤退はできない、とにかく偵察前進した。畑地は何の作物の為の物か、湿地と同様でズブズブと足をとられる。畦道もさほど変わらない。更に進むと、小さな水路が縦横に走り、草が生い茂り何がなにやらわからない。それでも草をなぎ倒し、それを足場にして少しずつ前進した。

「庭月楯」の白い標柱が見え、そこまでなんとか進むと、そこには広く深い空堀があった。傾斜もかなりきつい見事な空堀だ。見回しても土橋のようなものは見当たらない。恐らくは木橋がかかっていたのだろう。この空堀を突破するのはそう簡単ではなさそうだ。ここまでの畑地でさえぬかるみに難儀している。急な斜面は当然すべるだろうし、堀底はさらにぬかることが考えられる。

空堀を上から覗き込み進入ルートをさがした。足場になりそうな木の切り株や草の根や倒木をたよりに斜面を少しずつ下りた。堀底はずぶずぶのぬかるみで、倒木を慎重にわたり急斜面にはりつき、ちぎれそうなシダの茎の根元を掴みながら、体を少しずつずりあげていった。

林の中の内郭は、足場は良くはないが畑地ほどではない。いつものように周囲をぐるりとまわった。東側は鮭川の断崖で、北側にはその支流がありやはり断崖となっている。あの空堀は、西側と南側で台地をするどく切り取っていた。

鮭川を臨む北東隅に、小さな古碑があった。誰がいつ建てたのか、「太守公広綱塔」とあり、最上氏の改易とともにこの地を去った庭月氏の無念と誇りが刻まれているように感じた。