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2012/07/04

昨日は仕事で福島県内を回り福島市に宿をとった。例によって、この日の仕事の前に好きな歴史散策をするつもりだった。日が長いということは、旅人にとっては嬉しい限りだ。特に、仕事の合間に歴史散策をする私にとっては、日の出から仕事が始まるまでの時間、たっぷりと歴史散策に時間を割くことが出来るのはありがたい。

この日は一番に、「石名坂古戦場」を訪ずれた。源頼朝の平泉征討の際に、信夫の庄司の佐藤基治は、阿津賀志山に参陣することはなく、大鳥城を出て、石名坂に陣を敷いたとされる。

佐藤基治は、阿津賀志山の平泉勢に合流することなく、また、堅城の大鳥城に籠ることなく、孤軍で石名坂に出陣したのか、割り切れない思いを持っていた。現地を見れば、謎の一端が解けるのではないかとの思いがあった。

はっきりした場所はわからず、福島市の松川から平石あたりにかけて歩き回ったがわからず、あきらめかけたときに、古戦場跡の標柱を見つけた。奥まった地に、立派な「古戦場跡」の石碑も建てられている。しかしどうも納得がいかない。

地形から考えると、この地の鎌倉軍の進路は下り坂となり、基治軍は右側面となる。このため、下る敵に対しての側面攻撃の形になり、上り来る敵に対して上方から攻撃する、当時の戦いの定法からは外れることになる。また、阿津賀志山に陣を敷く平泉本隊からかなり離れた位置にあり、全くの孤軍となる。わざわざ、要害堅固で阿津賀志山にちかい、本拠城の大鳥城を出て戦う意味が見いだせない。なぜ、信夫の庄司佐藤基治は、この地に陣を敷いたのか、謎は深まるだけだった。

解けない謎をうつうつと考えながらゆっくりと車を走らせているときに、「土合館公園」の看板を見つけた。予定外の館跡である。比較的小さな城館のようで、近くに八丁目城があるので、その出城的な館なのかもしれない。すぐに小さな駐車場に車を停めて靴紐をしめなおした。

まだ梅雨の最中でもあり、湿度は高いがまだ朝早いこの時間は気温も低く、空気もべとつくこともなくさわやかだ。地域の公園としてきれいに整備され、館跡には紫陽花が植えられており、薄青の花房が館跡全体に美しさを競っている。しかしそれでも、公園内に放射線測定器が置かれており、原発事故以来この地の大気に、見えない影を落としていることははなはだ残念だ。

土合館跡は、公園として整備されているものの、館跡としての地形もよく残されており、土塁や切岸も散見される。城館跡の公園の中には、本来の地形を突き崩し、無理やり改変しているようなところもあるが幸いなことに、この館跡はそうではないようだ。

館跡を一通り歩き回り、館山を下りていくと、一組のご夫婦が紫陽花を愛でながら写真を撮影していた。声をかけられ、しばし話し込んだ。あちらこちらでご夫婦で花の写真を撮って歩いているらしく、歴史にも造詣が深いようだった。同好の士との話は心地よい。スカイツリーやディズニーランドなどに行くまでも無く、知的好奇心と美しさを愛でる心があれば、身近な所にいくらでも素晴らしい物があるということを改めて教えていただいた。