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楢葉氏、標葉氏、岩城氏は、ともに常陸大掾平国香の子孫安忠を祖とする同族であり、その六代目にあたる隆行(成衡)が陸奥に下り、奥州平泉の藤原清衡の女婿となり、妻との間に五人の子供をもうけた。長男が隆祐で楢葉郡に、次男隆衡(隆平)は岩城郡、三男隆久は岩崎郡、四男隆義は標葉郡、五男隆行は行方郡をそれぞれ与えられ、それぞれの地名を姓とした。

文治5年(1189)の源頼朝の奥州征伐では、奥州藤原氏との関係が深かった岩城氏一族も、鎌倉方として参陣し、本領を安堵された。その後、海道五郡の岩城・白土・好島・諸根・相馬・楢葉・標葉らは、岩城氏を中心として一体感をもって行動していたが、それぞれに独立色が強く、強固な惣領制を築くまでにはいたらなかった。

幕府と鎌倉府の関東での争乱の中、岩城氏も一族間の争いが激しくなり、嘉吉の内訌が起こり、白土隆忠が岩城氏新惣領となり、岩城氏が戦国大名へ発展する道を拓いた。岩城氏は、海道の一族を従え、文明年間(1469~87)には白河氏と結び楢葉氏は攻められ、楢葉は攻略された。

楢葉氏の本拠城の楢葉城は、楢葉町のジェィ-ヴィレッジの北側の台地一帯にあった。比高は凡そ20mで、城域の北西部に主郭が置かれ、主郭の東側には虎口が設けられ、重厚な土塁がめぐらされている。その南に二の郭が、さらにその東に三の郭が配されている。西側は急傾斜で、東側は緩斜面になっており、主郭の東側には、数段の腰郭が配され、さらに空堀、水堀があったと思われる。また三の郭の東側にも水堀が配され、その外側にも郭が置かれその城域は広大だ。楢葉氏滅亡後は岩城氏の重臣の猪狩氏がこの城に入った。

この時期、北の相馬氏は標葉氏を滅ぼし、この地は岩城氏と相馬氏とが境を接する地となった。


現在の福島県双葉郡で、楢葉氏に隣接していた標葉氏は、楢葉氏と同じ岩城氏の一族だったが、独立色は強かった。南北朝期には、南朝方に属し、北朝方の相馬氏と岩城氏にはさまれながら勢力を維持していた。標葉持隆の時には、北畠顕家の二度の西上に従い戦ったが、顕家は敗死し持隆は帰国したが、その後標葉氏は衰退した。

しかし、それでも戦国時代には、岩城氏、相馬氏ら奥州海道筋の豪族たちと抗争、同盟を繰り返し、標葉六騎七人衆とよばれる一族を率い、標葉郡に一定の勢力を保っていた。嘉吉2年(1442)、標葉氏の当主の標葉清隆は、本拠を権現堂城に移して攻撃に備えていた。清隆は、岩城氏、相馬氏の侵略を食い止めていたが、嫡男の標葉隆成には人望がなく、清隆が高齢化するにつれ、標葉氏を支えていた六騎七人衆ら重臣たちの間にも不安が広がっていた。

これを知った相馬高胤は、標葉氏家臣に内応を盛んに働きかけ、長享元年(1487)12月、大軍をもって権現堂城を攻めた。しかしこのときは、標葉一門筆頭の泉田隆直や藤橋隆豊らは清隆に従い激しく抵抗、高胤は城を落とすことができぬまま、明応元年(1492)6月、陣中で急病により没した。i

相馬軍は、高胤の死を秘したまま小高城に戻り、高胤の跡は13歳の嫡男の盛胤が継ぎその後も標葉氏と対峙した。その5年後の明応元年(1492)冬、18歳の盛胤は、標葉攻めを開始した。盛胤は標葉氏一門の泉田隆直の守る泉田館を囲み、隆直に盛んに降伏を勧めた。先の戦いでは標葉清隆に従い相馬氏と戦った隆直だったが、このときは標葉隆成の器量の無さにすでに宗家に失望していたようで降伏した。

一門筆頭の泉田隆直の降伏に標葉氏家臣団は動揺し、標葉一門の藤橋隆豊らが密かに相馬勢に使者を送り内応を約束した。相馬盛胤は隆豊らと謀り、標葉清隆、隆成父子の篭る権現堂城を攻め、隆豊は城門を開き権現堂城に火をかけた。相馬勢は城内に乱入し、清隆、隆成父子ももはやこれまでと城内で自刃し、300年に渡り標葉郡を支配していた標葉氏は滅亡した。

標葉氏一門の泉田氏や藤橋氏、熊川氏らは、相馬氏の一門格となり、相馬氏重臣としてその家系をつないでいった。

権現堂城は請戸 川の北岸にあり、西から東へ伸びる舌状台地の先端部に築かれている。台地の先端部を南北に二条の空堀で区画し、二つの郭が造りだされている。空堀は深さ10m、堀底は最大で6mほどもある。

台地の東側先端部が本郭と思われ、現在神社が祀られている。西側の郭は、本郭より大きいようだが、現在は藪になっており遺構は確認できない。

その後、この地は相馬氏が支配するところとなり、楢葉氏と標葉氏の領境の小良ヶ浜に流れ出る小川を挟み、これ以降も相馬領民と岩城領民が「おらが浜」だと小競り合いが続いたという。