九戸政実の乱後、九戸城は蒲生氏郷により改修され、南部信直が三戸城からこの城に居城を移し、九戸を福岡と改称して、城と城下町を整備した。だが、福岡城が南部領内の北に偏りすぎて不便なため、慶長2年(1597)から不来方(盛岡)築城が開始され、寛永13年(1636)に廃城となった。
しかし、この城跡を「福岡城」と呼ぶ者は多くはなく、この地域の方にとってこの城は「九戸城」であり続けているようだ。それは、九戸政実の乱が、この地の方々にとって印象深いものであり、また、10倍を超す仕置軍に対しての戦ぶりを、密かに誇りにしてきたからだと思われる。ここでは、この地の方々に密かに伝えられてきた伝承を紹介する。
・鉄砲の名手工藤業綱
工藤右馬介業綱は、九戸勢における鉄砲の名手だった。寄せての蒲生氏郷はこのうわさを聞き、家臣に的を用意させて射抜けるかどうか試そうと考えた。氏郷は的として傘を用意し、この傘を射抜いて見せよと伝えた。
ずると工藤業綱は、傘のどの部分を射抜けばよいかを尋ねるので、中心部分の島の部分を打つように伝えた。距離は約100間ほどあったが、業綱はものの見事に打ち抜き、敵味方から称賛の声が上がったという。
九戸城の撫切りをなんとか逃れた業綱は、天正20年(1593)1月、南部信直が岩谷観音を参拝した夜に、灯りを頼りに狙撃しようと待ち伏せしていた。信直の供の者が灯りを一瞬信直から遠ざけたため、その灯りを射抜いたものの信直の狙撃には失敗した。業綱は捕らえられたが、信直は鉄砲の技量を見込み、200石で召し抱えたという。
・九戸城退き口
九戸城は仕置軍の謀略により開城され、城中の者はことごとく撫で切りにされた。しかし、開城の前日に、多くの者が、津軽為信が布陣する城の北西部の馬淵川を渡り、逃れ出たという。
この時期、津軽為信は南部氏から津軽独立を果たしていた。その経緯から、南部信直とは鋭く対立しており、九戸政実とは一脈通じていたともされ、九戸城には為信の家臣も入っていたようだ。為信の黙認により、多くの九戸勢が為信が守る陣をすり抜けて、津軽、出羽に逃れた。
その後、為信は、独立時に恩を受けた石田三成の遺児らを津軽に匿うなど、情に厚い人物であり、場合によっては、罪を咎められる行為だったが、北側に陣を置く南部信直に睨みを利かせながら、落人を通したのだろう。
・九戸神社・首級清めの池
6万を越える仕置軍は、堅城の九戸城に籠る5千の九戸勢の善戦で多大な犠牲を出していた。その内、秋も深まり、大軍の仕置軍は、その兵糧にも事欠く状態になった。 そのため、浅野長政や蒲生氏郷は、謀略をもって政実に開城を求め、政実らはこれに応じ開城した。政実らを捕らえた仕置軍は、一気に九戸城を攻め、女子供も含めた城中の者すべてを二の丸に集め、火をかけなで斬りにしたという。
九戸政実ら八名は、囚人用の竹籠に乗せられ、9月8日九戸を出発し、9月17日に、豊臣秀次が本陣を置いていた宮城県栗原市三迫の地に引き立てられた。 政実らは、一言の弁明も許されず、天下の大罪人として、斬首された。その首は近くの泉で清められ、その遺骸は九戸神社の地に埋められた。遺骸を埋めた場所には塚が建てられ、村人達により供養の椿が植えられたという。
明治初年、遠田郡の行者が、九戸政実の霊夢によりこの地を訪れ、荒れ果てた草むらの中から塚を見つけ、碑を建てて供養し、九戸神社が祀られた。
・岩窟祠
九戸城の南東約6km、九戸へ向かう道から折爪岳山中に入った位置にこの岩屋がある。九戸城は開城され、その後、城中の者はなで斬りにされたが、逃れた者もそれなりにはいたようだ。ある者は津軽や出羽方面に逃れ、またある者は九戸氏の本貫の地の九戸村方向へ逃れた。
この岩窟祠は、九戸の姫君が逃れ来て、この岩窟にしばし身を隠していた場所と伝えられる。九戸村方向へ逃れたものの多くは、追っ手を避け、折爪岳山中に逃れたものと思われる。
この岩窟に身を潜めた「九戸の姫君」が誰であるのか、またその後の消息などは伝えられていない。
・九戸政実の首塚
九戸政実の家臣の佐藤外記は、九戸城の撫切りからかろうじて逃れ、落ち延びた。主の最後を見届けようと、乞食に姿を変えて三迫に行き、斬首獄門にされた首を夜陰に乗じて持ち帰り、九戸神社の近くの山中に塚を築き葬ったと伝えられる。
・九戸亀千代最期の地
政実の次男の九戸亀千代は母とともに捕らえられ、蒲生氏郷は即座に斬首を命じ、母と共に首をはねられ、首は九戸氏の菩提寺の長興寺に送られて葬られた。
しかしこれには諸説あり、この地では次のように伝えられる。
政実の一子亀千代は、津軽に逃れようとしこの地に差し掛かったが、南部信直の家臣の、佐藤軍郷に捕えられた。亀千代は観念した様子で西に向かい手を合わせ経をあげた。軍郷はその可憐さと潔さに涙しながら亀千代の首を落とした。その場所が田んぼの中の祠のある場所だという。
佐藤軍郷はその後、亀千代の菩提を弔うべく、武士の身分を返上してこの地に留まり、亀千代を祭神として若宮八幡宮を建立し、代々これに勤仕してきたと伝えられる。
・九戸市左衛門
大浦為信が津軽独立を目指している時期は、九戸政実が南部信直と争っている時期で、南部領は、実質的には、南部、津軽、九戸領が入り乱れていた時期だった。そのような中で、南部信直と激しく争う大浦為信は、九戸政実と気脈を通じていたと考えられる。
しかし、大浦為信は南部信直よりも早く豊臣政権に働きかけ、秀吉の小田原征伐にも参陣し、津軽独立を果たしていた。しかし九戸の乱の時期には、すでに天下総無事令が敷かれ、南部信直も小田原に参陣した後でもあり、九戸の乱は総無事令に違背するものとなってしまった。
そのような中で、政実は、九戸の乱の1年前に津軽為信に長男の市左衛門を為信のもとに送った。それは最悪の場合に備え、九戸氏の家系を残すためのものだったろう。
乱後も為信は市左衛門を匿い、市左衛門は為信に仕え馬廻衆を務め、400石を領した。その後、明治に入ってから九戸姓に復したという。