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1、日韓併合と韓国の本格的な近代化

日露戦争終結後の1905年、清とロシアの保護を受けられなくなった大韓帝国は、日韓保護条約を締結し、事実上、日本の保護国となった。それを踏まえ、日本は本格的に韓国の近代化に着手した。

朝鮮統監府は、1909年に戸籍制度を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代の身分制度にも手をいれた。李朝時代の賤民は、牛馬とともに売買される対象であり、両班の「財産」であり、姓を持つことも許されず、戸籍には身分が記載され、賤民の子供は原則として賤民のままだった。統監府はこれを削除し、身分制度が緩和された。しかし、かつての両班は、彼らの「財産」が失われる身分制度の緩和には反発し、抗議デモを行ったりした。

朝鮮総督府は、日韓が併合された1910年から、1919年の間に、土地調査事業を行い、税制の基本となる土地の所有権を確定した。所有権が判然としない土地や、国有地、旧朝鮮王朝の土地などは、朝鮮総督府が接収し、朝鮮の農民に安値で払い下げられ、一部は日本人にも払い下げられた。この土地政策について、現代の韓国では「日帝による土地収奪」と捉える者もいるが、朝鮮総督府に接収された土地は、全体の3~10%ほどだったと考えられている。

日本統治下においては、日本内地に準じた学校教育制度が整備された。初代統監に就任した伊藤博文は、学校建設を改革の最優先課題とした。小学校も統合直前には100校程度だったのが、1943年には4000校を超えるまでに増加した。

1911年(明治44年)、朝鮮総督府は第一次教育令を公布し、朝鮮語を必修科目としてハングルを学ぶことになり、朝鮮語が科目として導入され、朝鮮語による文化活動も許容された。これにより朝鮮人の識字率は1910年(明治43年)の10%から1936年(昭和11年)には65%に上昇した。ただし、学校教育における教授言語は日本語であり、また、ハングルは李朝時代は事大先中国の漢文と比べて劣等言語として扱われており、日本を新たな事大先と考える朝鮮人たちは、積極的に日本語を受け入れる者も多かった。

併合以前の朝鮮半島は、インフラの整備も産業振興もほとんど行われておらず、見るべき産業も少なく、また労働力も豊富ではなかった。他の欧米諸国の植民地のように「収奪」できるものはなかった。しかし朝鮮半島は、ロシアとの対抗上、重要な地政学的な位置にあり、日本は朝鮮半島を植民地としてではなく、日本の一部として教養ある「日本人」を増大させることにより、国力を増加しようとした。日本は積極的にインフラへ投資し、朝鮮半島の経済および人的資源を育成しようと努めた。

この当時の韓国の様子を、在日アメリカ大使の妻で作家のイザベルアンダーソンは、次のように書き残している
「寺内総督統治の下、韓国に多くの発展があった。これは、地元の人と征服者の間に摩擦無く成し遂げられるとは限らないが、その結果は確かに驚くべきものだと認めなければなるまい。政府は再編成され、裁判所が確立され、法が見直され、景気が良くなり、交易が増えた。農業試験場が開設されて農業が奨励され、内陸から海岸まで鉄道が敷かれ、港が浚渫されて灯台が建立された。韓国への日本の支出は毎年1,200万ドルに上っている。」

この日韓併合により、日本内地へ仕事を求め、多くの朝鮮人が流入した。このことによって、内地の失業率は上昇し、また治安も悪化した。このため、日本政府は朝鮮人を内地へ向かわせないよう、満洲や朝鮮半島の開発に力を入れ、内地への移住や旅行を制限するようになった。

また、朝鮮半島内でのインフラ整備に重点が置かれたため、まだ道半ばだった東北地方のインフラ整備に遅れが生じた。さらに、朝鮮半島から安価な米が流入したために、内地では米価の低下を招き、その影響で東北地方などの生産性の低い地域では農家が困窮する事態となっていった。

2、三・一運動は近代化の中で終息した

第一次世界大戦末期の1918年、米国大統領ウィルソンにより、”十四か条の平和原則”が発表された。これらのことから朝鮮人にも民族自決の意識が高まり、李光洙ら留日朝鮮人学生たちが東京で「独立宣言書」を採択した。これに呼応した、朝鮮半島のキリスト教、仏教、天道教の指導者たち33名が、3月3日の大韓帝国初代皇帝高宗の葬儀に合わせ行動計画が定められた。

高宗の死には、巷間、様々な風説がささやかれていた。息子が日本の皇族と結婚することに憤慨して自ら服毒したとも、あるいは毒殺されたなどといったものである。もちろんそのような事実はなかったが、日韓併合が朝鮮民族の悲運と重ねられ、ナショナリズム的な機運が民衆の中に高まった。

3月1日午後、京城中心部に33人の宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げ万歳三唱をした。この独立宣言書は、朝鮮半島の13都市に配布された。この宣言書は何よりも朝鮮が独立した国家であること、及びその国民である朝鮮人民が自由であることに重きを置いたものであり、そしてそれは「人類平等の大義」と「民族自存」という原理に基づくものとして捉えられている。この他、朝鮮という民族国家が発展し幸福であるためには独立を確立すべきこと、そしてそのために旧思想・旧支配層・日本からもたらされた不合理なものを一掃することが急務であることなどが骨子として書かれていた。

発端となった代表33人は逮捕されたが、数千人規模の学生が市内をデモ行進し、「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模になったという。以降、運動は始め朝鮮北部に波及し、その後南部に及び、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡り展開された。これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たった。

運動は当初は平和的な手段によって行なわれていたが、次第にデモは激化していった。日本側は憲兵や巡査、軍隊を増強し鎮圧をはかった。独立運動側では伝聞の情報として、7500名を超える犠牲者があったとされるが定かではない。しかしながら、いくつかの悲劇が発生したのは事実である。最も有名なのは堤岩里事件である。この事件は、日本人巡査殺害等の暴動を起こした30人程の堤岩里の住民が教会に集められ、一斉射撃の後放火焼殺された。この他にも同様の事件があったようだが、詳細は定かではない。

またこの運動中に、当時17歳の梨花学堂学生柳寛順(ユグァンスン)が逮捕、起訴され、懲役3年の有罪判決を受けて投獄され、獄中で死去した。この話は、彼女についての実際の記録はほとんどない中で、虚実ないまぜに国内に広まり子供向けの伝記にまでなった。後には「独立烈士」として顕彰され、韓国ではフランスの国民的英雄ジャンヌ・ダルクになぞらえ「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれるようになった。

朝鮮総督府当局による武力による鎮圧の結果、運動は次第に終息していった。運動期間中に逮捕、送検された被疑者は約13000名であったが、他国の同様の事件と比較して、その処分は非常に軽かったといえる。有罪判決を受けた者は約4000名、首謀者ら8名は懲役3年、6名は懲役2年6ヶ月の刑で、内乱罪は適用されず、死刑や無期懲役になった者はいなかった。さらにその多くは、1920年の大赦令によりさらに刑期が半減された。

三・一運動は、現在、韓国ではその正統性につながるものとして肯定的に評価されているが、運動の発生は刹那的であり、その経過も戦略的な統一性を欠いたものだった。その後の朝鮮総督府の、融和的な方向付けと近代化の進捗により、朝鮮半島では1945年の日本敗戦に至るまで大規模な運動は起こらなかった。

司直の手を免れた一部の活動家たちは外国へ亡命し、上海に臨時政府を作ったが、離合集散を繰り返し、国際的に認知はされず、また肝心の韓国内には、連携する抵抗組織は殆どなく、その後の1945年の日本の敗戦に至るまで、有名無実といっていいものだった。北朝鮮では、三・一運動は、失敗したブルジョア蜂起と否定的に捉えられている。

3、戦わなかった戦勝国の韓国光復軍

満州の間島地域には、1920年頃には朝鮮人50万人程度が集住しており、朝鮮国内の独立運動に刺激された農民や労働者が新たに決起したことで、間島地域では多数の抗日武装組織が結成された。これら抗日武装組織は、しばしば越境し、朝鮮北部の町を襲撃した。しかし、それは民間人や非武装施設への略奪・襲撃であり、大日本帝国軍や朝鮮総督府と直接に武力衝突を行うものではなく、野盗と同様の犯罪者武装集団で、総称して匪賊とか馬賊と呼ばれた。

1920年、中国人馬賊が琿春の日本領事館を襲撃する琿春事件が起き、これに伴って日本は、間島一帯に数万の大部隊を送り込み、大規模な鎮圧作戦を行った。これにより各武装集団は大打撃を受け中露国境に逃走し、統合し「大韓独立軍団」と称した。しかし、ロシア国内の赤軍と白軍の内戦に巻き込まれ、赤軍の武装解除の命令に抵抗し壊滅した。

1932年に満州事変が勃発すると、中国共産党の下、中国人による反満州国運動と結びつき抗日闘争が盛り上がった。しかしどれも数百名程度の小規模グループで、しばらくすると生活に困窮して、共産主義者と民族主義者の争いなど内部抗争に走り、結局は農業に戻る者が続出した。

しかしその中の一部は朝鮮人民革命軍(抗日パルチザン)と称し満州で抗日運動、反満州国運動をおこなった。これは大韓民国臨時政府の指導下にはなく、中国共産党満州省委員会の中国人の指揮下にあった。この革命軍は、後に北朝鮮建国の核になった。

また、それとは別に、大韓民国臨時政府は、光復軍宣言文を発表し、他の馬賊、匪賊とは異なり、「韓中二国の独立を回復し、日本帝国主義を打倒することを目的にする」とその主旨を明らかにした。しかしながら、中国政府の蒋介石指揮下の4個支隊300人ほどの小勢力だった。

1941年、真珠湾攻撃が起きてアメリカが参戦すると、中国は対日宣戦布告を行い、連合軍となりたかった大韓民国臨時政府も対日宣戦布告をしたが、これは日本政府に布告文書は通達されておらず、実効性は無かった。光復軍は、韓国飛行隊の設立なども構想していたが現実性に乏しく、盛んに招募も行ったが、はかばかしくはなく、日本の敗戦の直前でも2千人ほどだった。結局、光復軍は戦闘の実績がほとんどなく、インド・ビルマに13名の工作隊を派遣し、朝鮮系日本兵の投降を呼びかけてイギリス軍に協力したことが、数少ない実績だった。

中国内部は、国民党と共産党の勢力が常に争い、朝鮮人部隊も国家主義者と共産主義者が混在し、終始争い、国共内戦の対立構造で不和が目立った。結局は、大韓民国臨時政府は正式な政府と認められず、同じく光復軍も正式な朝鮮の軍隊として認められることはなく、連合国軍の一員には最後までなれなかった。

これに対して、日本統治下の朝鮮では、1940年頃には日本との同化が進み、国内の映画館などで、日本軍の勝利が放映されると、朝鮮系日本人からは大きな声援が起きる程だった。また当初は内地と異なり徴兵ではなく志願制をとっていた。1940年の志願倍率は27.6倍の高倍率で85000人ほどの志願があった。当時は、朝鮮人による日本軍入隊のための血書提出が流行しており、後に韓国大統領となる朴正煕も血書を提出し満洲新聞に掲載されている。1944年に朝鮮半島でも徴兵が行われたが、訓練中に終戦を迎え、実戦に参加することはなかった。

日本政府は、朝鮮半島で徴兵を行わなかった理由として、抗日勢力が内部に入り込むことを懸念したのと同時に、朝鮮人の民族性についても懸念しており「飲食物に対しては特に関心深く分配の分量、副食物等に対し淡白ならず且野外演習等に際し野卑なる行動を暴露することあり。」と記している。

しかし、日本軍の将校を養成する陸軍士官学校や陸軍幼年学校も朝鮮人へ門戸を開放しており、また、 満州国軍の朝鮮人軍人も陸軍士官学校に派遣留学されることがあり、朴正煕韓国大統領は満州国軍の士官任官後、同校で教育を受け卒業している。また華北では八路軍と戦い、陸軍中将にまでなった洪思翊も陸軍士官学校出身だった。

日本の敗戦後、韓国軍の主力となったのは、光復軍などの独立軍ではなく、旧日本軍出身韓国人であり、第18代までの韓国陸軍参謀総長は全て旧軍出身者で占められていた。しかし、21世紀になると、日本軍の将官、高級将校を務めたものの多くは、親日反民族行為者と認定され、北朝鮮では旧軍の将校以上の地位にあった者は対敵協力者としてほとんどが粛清された。