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盛岡藩初代藩主、南部利直の正室、源秀院(武姫)の墓は、盛岡市の光台寺にあり、「ムカデ姫の墓」と呼ばれている。

武姫は、蒲生氏郷の叔父の小倉行隆の娘だった。蒲生氏郷は、天正18年(1590)の奥州仕置で、それまでの功により、伊勢より陸奥会津に移封され、91万石の大領を得た。奥州の伊達政宗を牽制しながら、葛西、大崎一揆を戦い、その後の九戸政実の乱の際には、仕置軍の主力として、南部利直とともに戦った。

恐らくは、伊達政宗を警戒する豊臣秀吉の意向があったのだろう、会津の蒲生氏と、三戸の南部氏は姻戚関係になる。蒲生氏郷は、小倉行隆の娘の武姫を養女とし、文禄元年(1592)、南部利直との縁組が決まり婚約した。

蒲生氏郷は、伝説の俵藤太(藤原秀郷)の後裔で、伝説では、俵藤太は、瀬田の唐橋に大蛇が横たわっていても、それを踏みつけて渡るような豪のものだった。ある夜、琵琶湖に住む龍王の娘が現れ、三上山の大百足に悩まされており、助けて欲しいと頼む。快諾した俵藤太は、山を七巻半する大百足に矢を放ち、最後の一本でようやく退治したとされる。

また、蒲生氏郷自身も、その勇名、毛並みのよさ、どれをとっても豊臣政権でひときわ光をはなつ存在であり、蒲生氏との縁組は、南部氏にとって豊臣氏との結びつきを強固なものにすると考えられただろう。また九戸の乱での活躍は、南部家にとっては、救国の英雄ともいえる存在だった。

蒲生氏にとっても、伊達氏と対峙しながら、奥羽の地で勢力を維持するためには、伊達氏の背後の、北奥羽の雄である南部氏との縁組は重要なものと考えられただろう。しかし氏郷は文禄の役で肥前名護屋城へ参陣していた中、陣中にて体調を崩し、文禄4年(1595)2月、伏見で病死し、その跡を子の秀行が継いだ。

慶長3年(1598)、武姫は蒲生氏の家宝である、俵藤太が大ムカデを退治した際に使用したと伝えられる矢の根を持参し、南部利直に嫁いだ。しかし、同年3月、若年の秀行の下、蒲生氏は重臣間の争いからついに会津領を失い、会津領の8分の1近い12万石で、下野へ減移封されてしまった。

当時の婚姻は、その背後の実家の力が大きくものをいう時代で、南部氏にとっては、武姫の価値も半分以下になったという思いがあったかもしれない。その後、お武の方となった武姫は、利直との間に嫡男をもうけたものの、利直は、蒲生家から武姫につき従ってきた侍女を側室とするなど、利直との仲は円満と言えるものではなかったようだ。寛永9年(1632)、利直は江戸で没し、その跡を、武姫の子の重直が継いだ。

武姫は切支丹だったとも伝えられ、厨子に収まる小さなマリア観音像を持参していたという。養父の蒲生氏郷は熱心な切支丹で知られ、その感化を受けたのだろう。しかし、徳川の世になり、各所で切支丹は弾圧され、寛永13年(1636)、南部重直は、領内に切支丹宗徒が多く出たことで幕府から譴責された。さらに、翌年には天草の乱が起き、武姫は、幕府の目を恐れる家中から疎まれたと思われる。

寛文3年(1663)、武姫は江戸の南部屋敷で没した。法名は源秀院、盛岡の光台寺に葬られた。武姫は、90余歳の長命を保ったが、その生涯は、その悋気や、切支丹だったことなどで、利直や家中には疎まれることが多かったと考えられる。そのようなこともあり、その死後に怪談じみた話が起きた。

武姫が亡くなった時に、その遺体には、異様な形の変色が見られた。それはムカデに似ていたとされ、「矢の根に残っていた大ムカデの呪い」と人々に噂された。

ムカデは水を嫌うということから、墓の周囲には堀がめぐらされ、堀には太鼓橋を架けることになった。しかし完成して渡り始めという前日の夜に、橋はこなごなに破壊された。その後、何回かけても橋は壊されてしまう。そのため誰言うとなく、「大きなムカデが出てきて橋を壊してしまう」と噂された。その話は重直の耳にも入り、重直は、武姫の墓参の当日、たくさんの家来を見張りにつけ、数千人の人夫を雇い入れ、一気にその日のうちに工事を終え橋を完成させ墓参を行った。

しかしその後も、この付近では、俵藤太に殺されたムカデの怨霊が何百匹となく毎夜のように這い回り、あるいは、武姫の百千筋の髪の毛がことごとく蛇に化け、その蛇はみな片目であったなどと噂がたった。

ムカデは毘沙門天の使いであり、お足(お金)が多いことから、全国にあった金山では神様として祀られている。武姫が嫁ぎ、亡くなるまでの南部藩は、大量の産金に湧いた時代でもあり、盛岡の築城から町づくりまで、藩の財政を支えた。しかし、武姫の死後は、産金量も減少し、次第に藩の財政も苦しいものになっていった。

また、武姫の死の翌年に、重直も没し、その跡は異母弟の重信が継ぎ、南部藩の武姫の流れは絶えることになる。