福島県の南会津地方には、高倉宮以仁王の伝説と、尾瀬大納言藤原頼国の伝説が今に伝えられている。
以仁王は、後白河天皇の第三皇子で、幼少から英才の誉れが高く、学問や詩歌、特に書や笛に秀でていたという。皇位継承においては有力候補だった。しかし当時は平家が権勢を誇っており、異母弟の憲仁親王(高倉天皇)の生母の平滋子の妨害に遭って阻止されたという。
治承3年(1179)11月、平清盛はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉、関白を追放し、以仁王も所領を没収された。治承4年(1180)4月、以仁王は、ついに平氏討伐を決意し、源頼政の勧めに従い、平氏追討の令旨を全国に雌伏する源氏に発し、平氏打倒の挙兵を促した。
自らも「最勝親王」と称して挙兵を試みたが、準備が整わないうちに計画が漏れ、5月15日に皇族籍を剥奪され、土佐への配流が決まった。
しかし平氏は、その夜のうちに以仁王を亡き者にせんと、以仁王の館を襲撃したが、王は園城寺に逃れ、源頼政らと合流し、さらに南都の寺院勢力を頼ることとし、興福寺に向かった。5月26日、一行は平氏の軍勢に追いつかれ、頼政が宇治で防戦して時間を稼いでいる間に以仁王らは興福寺へ急いだが、南山城の加幡河原で追いつかれて討たれたとされる。
しかし王の顔を知るものは少なく、東国生存説が巷に流れた。福島県南会津に残る伝承では、辛うじて逃れた以仁王と藤原頼国ら主従13人は、東海道から甲斐、信濃の山路を越えて、上野から、山本村と呼ばれていた、現在の大内宿の地に入った。一行は、この地にしばしとどまり、その後、源頼政の弟の源頼行が居館を構えていた越後の小国へ向かうことになった。
一行が桧枝岐に入ったところで、大納言藤原頼国は病に倒れ、やむを得ず以仁王らは頼国を残し小国に向かった。小国にも、以仁王が落ち延びてきたという伝承があり、それなりの信ぴょう性はある。しかし小国の伝承を最後に、その後の以仁王の消息を伝えるような伝承はない。
以仁王が山本村を発ってから間もなくして、王を慕う桜木姫がようやくの思いで大内の地に辿り着いた。しかし、長旅の疲れから病に倒れ、村人たちの看護も空しく没した。村人たちは姫を手厚く葬り、その名にちなんで、墓の傍らには桜の木を植えたと伝えられる。これ以後、この辺り一帯は、御側原と呼ばれるようになり、現在も字名となっている。またこの地の近くには、姫が回復を願い飲んだとされる「薬水」と呼ばれる湧水がある。
以仁王自身の平氏追討計画は失敗に終わったが、王の令旨を受けた木曽義仲は、以仁王の第一王子の北陸宮を旗頭として挙兵し、京の都に攻め上り、平氏を追討することになる。
一方、桧枝岐に残った頼国は、病状が良くなった後に以仁王の後を追ったが、山奥へと踏み込み道を失ってしまった。その地には「大鷲沼」があり、広い高原地帯で、人が訪れることもまれで、頼国はその地の岩窟に隠れ住んでいたが、結局その地に住みついた。
尾瀬氏がその末裔とされ(異説あり)、尾瀬ヶ原の牛首に居館を構えたとされ、長蔵小屋の近くの湿原の中の尾瀬塚が尾瀬氏の墳墓とされる。正中2年(1325)、時の尾瀬氏当主の尾瀬兵衛は後醍醐天皇に味方し、北条範貞に攻められ尾瀬氏は滅亡したと云う。