仙台市青葉区の仙台東照宮の周辺には、古くから「狐伝説」が多く伝えられていた。現在はマンションや住宅が立ち並ぶ東照宮から続く高台は、かつては小田原山と呼ばれる丘陵地帯で、野生のウサギやタヌキが生息しており、恐らくは狐も生息していただろう。
その狐伝説を確固としたものとしていたのは「狐の嫁入り」だった。実は私も小学生の低学年のときに、それを実際に見た一人だ。山の稜線近くに、点々と光が現れ、それが少しづつ稜線に沿って動いていき、しばらくするとフッと消えるのだ。今思えば、あれは蜃気楼で、東の彼方の仙台湾の漁火を映していたものだろうと思っている。
仙台東照宮の門前町である宮町の南端の、現在、小学校の校庭の端に、「狐石」なる特徴的な形の石があり、この地の「狐伝説」の一つを伝えている。
その狐石がある地は、かつて伊達二代藩主伊達忠宗が東照宮を宮町に造営したとき、この地に仮宮を安置し、本宮が完成したときここから遷宮した。この仮宮安置の場所は、御仮宮と呼ばれ空き地になっていたが、時がたつにつれ、雑草は生い茂り、杉木立深く、昼なお暗いものすごい場所になっていた。自然と狐や狸の住むところとなり、行き交う人も稀になった 。
ここに誰が持ちこんだか、丸形の大石が一つあり、通行人などが知らずに小便をかけたりすれば、たちまち狐に化かされて方角が分からなくなったり、泥田に入れられたりとひどい目に遭わされたと言う。
またこの空き地には、いろは狐と呼ばれた狐がいた。この狐は、いろはの文字を染め抜いた粋な着物に、いろはの印の入った提灯を下げた美しい女になって通行人を色仕掛けでばかしたということだ。
また、大正、昭和の初期を生きたおばあさんに聞いた話によると、ご主人が時折この地で「狐に化かされた」と、曰くありげに話してくれた。この「狐石」の地から、北に600mほどの所に明治期に遊郭が置かれ、いろは狐の伝説は、どうやらこの遊郭に由来するようだ。
仙台城下では、かつては舟丁あたりに小保(おぼ)町という遊客街があったが、寛文事件以来、仙台藩は遊女屋を禁じたため、目立った遊郭はなかったようだ。もちろん、各所にあった茶屋街で同様のことが行われていたことは容易に推測でき、この地に残る次のような狐伝説からもそれが伺える。
仙台城下はずれの若いお百姓が休みに仙台城下で一日遊びまわり、ほろ酔い機嫌でこの地付近を通りがかった。すると日和下駄のきざみも軽く歩いている若い美しい女がおり、よせば良いのに一杯機嫌の浮かれ心で声をかけ、しばらく話し込み、意気投合して女を抱きしめ、ことに及ぼうとした。そのとき夜露がひやりと襟元に触れ、我に返ると、なんとこの若い衆は田んぼのあぜ道に横になり、丸太棒をシッカリだきしめていたという。
戊辰戦争において仙台藩が敗れると、官軍の要請により、当時宿場町だった国分町に遊郭が置かれ、最終的には、日清戦争に伴う綱紀粛正により明治27年(1894)に郊外のこの小田原に移転した。
この地には、江戸時代には仙台藩の養蜂場があり、蜂屋敷と呼ばれていた地で、江戸時代には、田畑、山林、馬の放牧地などが広がり、松尾芭蕉ゆかりの玉田横野と呼ばれる地の一画だった。この地に、楼閣,楼主,そこで働く全員が集団で移転させられ「振袖町」などと呼ばれていたが、最終的に常盤町から移転したことで「新常盤町」と呼ばれるようになった。
当時の賑わいは相当のものだったようで、移転後に初めて行われた七夕は,各楼が意匠を凝らした飾り付けを行い、当時の新聞には「……斯る人出は遊廓移転以来始め見る処にて,之が為めに各楼とも相応の来客ありて頗るに賑へり,而して小田原新丁,車通辺は昼さへ通行人の稀なる処なるも同夜は往来の繁きこと近年其比を見ざる処なりし,」と報じられている。
移転当初の貸座敷数は19軒で,1901年12月末には大楼が8,中楼が11,その他が16の合計35軒と増加し,娼妓の数も300人ほどだった。この遊郭の開業は、帝国大学の学生や、陸軍第二師団や歩兵第四連隊の軍人に,東北各地の商人など、新たな人の流れを生み出しおおいに繁栄したようだ。
この地にのこる「いろは狐」は、この遊郭に続く道で、男たちの袖をひいたのだろう。そして男たちは「狐に化かされた」と、家族には言い訳にならぬ言い訳をし、子供達には「あの地を通ってはいけない、」と、臆面もなく子供たちへの戒めにしたのだろう。
公娼制度は、昭和21年(1946)にGHQにより廃止され,売春防止法の施行により,昭和33年(1958)には根絶された。終戦後、この地の楼閣は旅館街に衣替えし、地名も「旅籠町」となり、修学旅行の生徒たちを受け入れたりしていたが、建物の老朽化などで、現在、遊郭だったことを忍ばせるものはほとんどなく、付近に遊郭で亡くなった娼妓で無縁仏となった女性達の「仙臺睦之墓」が残るだけである。
また、この地で見えた「狐の嫁入り」も、マンションや住宅街の中に埋没してしまったようで、近年、見たという話を聞くこともなくなった。