天正13年(1585)10月、二本松城主の畠山義継が、伊達輝宗を人質にして逃走、高田原において輝宗の嫡子の政宗によって、輝宗もろとも殺されるという事件がおきた。
伊達政宗は、輝宗の初七日の法要を済ませた後、1万3千の兵を率い、弔い合戦として二本松城を攻めた。しかし、二本松城の守りは堅く、攻め落とすことができず、一旦小浜城へ退いた。
伊達の二本松攻めを知った常陸の佐竹氏や、会津の葦名氏は、伊達氏のこれ以上の南下を食い止めるために、岩城常隆、石川昭光、白川義親ら南奥羽の武将らと連合し、須賀川で合流して前田沢南の原に陣をとった。これを知った政宗は、小浜より岩角に出て高倉城に援軍を送り、本宮、玉井に兵を配して後方に備え、自らは本宮観音堂山を本陣とした。本陣の前には亘理元宗、国分政重、留守政景、原田宗時、鬼庭良直らが主力部隊の4千を率い、伊達成実は1千余の兵を率いて、遊撃隊として瀬戸川館付近に布陣した。このときの兵力は、畠山、佐竹、葦名らの連合軍が約3万、伊達勢は約8千であった。
伊達政宗は主力部隊4千を鬼庭左月斎良直を主将として金色采配を与え人取橋付近に配した。左月斎は73歳の老齢で、高齢のために重い甲冑が着けられず、黄綿の帽子を着けての出陣だった。
佐竹、葦名らの連合軍は、兵を三隊に分け、一隊は高倉城へ向け、一隊は中央正面より、残る一隊は会津街道から伊達本陣に向かった。戦いは高倉から始まった。佐竹氏、葦名氏らの連合軍の本隊は、伊達本陣を目指しこの地に進出、伊達勢との間で激戦となった。
戦いは一進一退で互角で、人取橋では一旦は撃退したものの、双方多くの兵が失われ、伊達の主将の鬼庭左月斎も混戦の中で討ち死にした。佐竹勢は日没のため一旦引き上げ、伊達勢も、数に圧倒する佐竹連合軍の翌日の攻撃に備え本陣に引き上げ、備えを厳重にした。
しかしその夜、連合軍の盟主である佐竹義重の下に、佐竹氏の領地の常陸に、江戸氏と里見氏が侵攻するという知らせが入り、佐竹勢は夜明け前に兵をまとめて常陸へ撤退した。これにより盟主を欠いた連合軍は統率を失い、それぞれに引き上げた。
この戦いで、伊達勢は426人、連合軍は961人が討ち死にし、この戦いの中心になった瀬戸川に架かる橋は 、多くの人が討ち取られた場所として、この後、人取橋と呼ばれるようになった。この戦いを乗り切った伊達政宗は最大の危機を脱し、その後南奥制覇に大きく飛躍する事になる。
政宗はこの地に壇を築き戦死者を弔い、後に功士壇が築かれ、鬼庭左月斎の碑が建てられた。