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日本各所に、不老長寿の薬を求めて、徐福が日本に渡って来たとする伝説が残っている。

ここでは、秋田県男鹿市の徐福伝説から歴史の迷宮に分け入ってみる。

この男鹿の地の五社堂の参道の傍らに、かつては除福塚があったとされ、現在その地に塚が復元されている。

除福は、かつての徐王国の末裔で、先祖は夏王朝の初期に「徐」に封じられた王で、子孫は代々長江、准河、泗水、済水の流域一帯に栄えた一族の流れと云う。除福の時代の紀元前221年、秦の「政」は諸侯をなぎ倒し乱世を統一し、都を「咸陽」に定め自らを「始皇帝」と称した。

天下統一後の始皇帝は、神仙の道に心を奪われ、特に「不老不死」の薬探しに躍起になったと云う。徐福は始皇帝の命を受け海へ出たが、仙薬を手に入れる事は出来なかった。そして「蓬莱島へ行けば必ず神薬を得ることが出来る。しかし我々はいつも大鮫に苦しめられてついに島へ行くことが出来なかった」と偽って上奏したと云う。

翌年の紀元前210年、徐福は再び「仙薬」を求めて渡海することを命じられた。「史記」によれば、「始皇帝は良家の男女三千人を使わし、五穀の種と百工をたずさえて渡海させた。徐福は平原と沼のある島にたどり着き、そこにとどまり王となり帰ってこなかった。人々は嘆き悲しんだ」とある。

1982年、中国で除福伝説が残る「徐阜(じょふ)村」が発見された。かつては除福村と呼ばれており、調査の結果、村には「徐福廟」があるものの「徐」姓を名乗る者が一人も居ない村だった。しかしこの村の伝承では、「徐福が旅立とうとする時一族を集め、皇帝の命により薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復し、「徐」姓は断絶の憂き目にあうだろう。旅だった後には、もう「徐」姓は名乗ってはならないと命じ、それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた」というものだった。

除福の3000人を率いての東の蓬莱島への船出は、国外への脱出だったのだろう。恐らくは30艘以上の船団を組んだ3000人の徐福ら一行は、二度と帰るつもりのない船出だったのだろう。当時、どこまで地理的にわかっていたかは定かではないが、東に進み日本海を渡れば、「蓬莱島」ならぬ陸地があることは、漁民らの経験からわかっていた可能性は十分にある。この男鹿半島周辺には、最近、北朝鮮の小さな木造船が漂着して問題になったが、大陸から潮流にのって、日本列島に漂着することは、天候が許せば難しいことではなかっただろう。

ただ、当時の航海術がどれほどのものだったかはわからないが、船団がまとまって、組織的に日本に漂着したとは考えられない。しかし多くの船が船単位で、日本海各所に流れ着いたものと推測できる。この男鹿半島にも、船団の内の数隻が流れ着いたものだろう。

この男鹿の地には「なまはげ」として鬼の伝説が残っている。この地に伝えられる鬼伝説の内の1つに次のようなものがある。

昔、不老不死の薬草を求めて漢の武帝が、5匹のコウモリを連れて男鹿にやってきた。武帝は5匹のコウモリを鬼に変え、家来としてこき使ったが、1年に一度、正月を休みにした。鬼たちは大喜びで里へ降り、作物や家畜を奪い大暴れし、ついには里の娘までさらっていくようになった。困った村人たちは、一夜で千段の石段を築くことができれば、1年に1人ずつ娘を差しだすが、もしできない時には、二度と里に降りてこない、という賭けをした。

鬼たちは石段造りに取りかかると、あれよあれよという間に石段を築いていく。慌てた村人たちは、鶏の鳴き真似のうまい村人に、千段まであと一段というところで、コケコッコーと一番鳥の真似をさせた。驚いた鬼ども。あと一段で負けた悔しさに、側の千年杉を引きぬいて真逆さまに投げ付け大地に突き刺し、武帝のもとへ帰っていった。それからというもの、再び村に降りてくることはなかったという。

この伝説に出て来る「武帝」は、秦の後の漢の皇帝である。徐福が船出してから、約100年後の大陸の皇帝である。武帝は匈奴制圧のため、幾度となく外征を行った。また、秦の始皇帝と同様に、不老長寿の薬を求めるために、多額の費用を費やした。恐らくは匈奴の制圧の時期に、一隊を「蓬莱島」に向けたことだろう。その武帝の一隊が男鹿の地に上陸し、蝦夷と争ったことが「男鹿の鬼」のモチーフになったと考えられる。

この地の「徐福塚」や「なまはげ伝説」は、中国大陸からの漂流者をモチーフにしたものであることは間違いないと思われる。この時期、この地は蝦夷の支配する時期であり、東北地方でも稲作が行われるなど弥生文化の初めにあたる。これらの漂着民による戦乱の結果、一定の地域を支配したような伝承は見当たらない。恐らくは、蝦夷の文化に一定の影響を与え、蝦夷やその後の大和勢力に同化していったのだろう。