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この日はなんとか三内丸山遺跡を写真に収めたいと思っていた。弘前方面から国道7号線を三内丸山遺跡に向った。時間はすでに3時を過ぎている。「秋の陽はつるべ落とし」とは良く言ったものだ。車を走らせ、信号で引っかかる度に光量が小さくなっていく。

フェリーの埠頭の案内表示がある。そこには保存された連絡船八甲田丸がある。そこにも行きたいのだ。国道7号線を左に進めば油川城跡があるはずでそこにも行きたいのだ。しかし夕暮れの三内丸山遺跡を思い描きながら、遺跡の標識のある交差点から7号線を右に入った。

三内丸山遺跡はそこから3kmほどのところにあった。すでに4時だ。昨日は小雨交じりの天気だったこともあり、4時には写真を取れる状態ではなかったが、幸いなことに今は少し青空が出ており、なんとか写真はとれそうだ。

大きな駐車場があり、すでに観光客はまばらであることを良いことに、入り口にもっとも近いところに車を停めて、案内表示にしたがって入り口に走った。しかし少し驚いた。時間がないので資料館などはパスしようと思っていたのだが、屋外の遺跡は、一旦建物に入ってからその向こう側にあり、他からは入れないようだ。

この遺跡は、発掘調査以来大きな話題になり、青森きっての観光資源となっている。観光客の中には不届き者もおり、保護するためには良い方法かも知れない。受付のお嬢さんの「5時までです」の声を後ろに聞き、遺跡に飛び込んだ。目の前に復元された縄文遺跡が広がる。遠くにあの有名になった縄文タワーの「大形掘立柱建物」がある。遺跡の原が夕暮れの光の中にある。一瞬タイムスリップしたような気持ちになった。

陽は刻々と暮れつつある。丘を駆け下り、まずは真直ぐに「縄文タワー」まで走り、夕暮れのタワーの写真を数枚撮ったことで少し落ち着いた。改めて周囲を見回した。広々とした敷地内に、大型の竪穴住居一棟と、複数の小型の竪穴住居が点在している。

しかしふと思った。規模からいえば、私の住む宮城県の大木囲遺跡なども負けてはいない。しかし、知名度から言えば圧倒的に三内丸山遺跡のほうが知られている。三内丸山には特徴的な「縄文タワー」があるが、それだけではないだろう。

青森の方々の多くにとっては、この縄文遺跡の住人たちは「先住民」ではなく、現代にそのDNAを直接繋いでいるのかもしれない。中央の弥生文化とは異なる、縄文文化から現代に直接つながるものをそのDNAで感じているのかもしれない。

長い間、教科書的な歴史では、弥生文化に先行していた縄文文化は、いわば「原始人」の「野蛮な」文化と見られてきた。しかしそうではなかったことが、東北の数々の調査で明らかになってきた。この三内丸山遺跡はそれを明らかにしてくれた。

青森の方々のこの遺跡に対する思い入れは、自分たちの直接的な祖先に対する畏敬の念があるのかもしれない。宮城県の大木囲遺跡や他の縄文遺跡に対する思いは、「先住民」の遺跡との思いがあり、どこか他人事のようで希薄であるような思いを感じる。

一通りまわり、日が暮れはじめた空にそびえる縄文タワーを、再び念入りに写真に収めた。

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