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初版20170710 4.9kview

 

日本の最後の海軍大将となった井上成美(いのうえ しげよし)は、明治22年(1889)、仙台市青葉区北目町で仙台藩士の家系に生まれた。仙台藩校養賢堂の流れを汲む、仙台の第一中学校に入学し、日露戦争直後の明治39年(1906)、海軍兵学校に入学した。兵学校入校時の成績順位は180名中第8位、卒業時の成績順位は179名中2位であったが、成績順位や自身の出世等には超然としていたと云う。

イタリア海軍駐在武官、軍務局第一課長、横須賀鎮守府参謀長などを歴任。横須賀鎮守府参謀長の際には司令長官の米内光政を補佐した。二・二六事件の際には、陸軍の青年将校たちによるクーデターが起きることを予見しており、海軍省を「海軍の兵力」で守る準備を進めていた。本来海軍省の構内には武器を持ち込むことができなかったが、海軍無線電信所が「部隊」であったためにこれに小銃20挺を配備し、また「軍事普及並びに宣伝用」という名目で戦車一台を海軍省内に常駐させていた。

その後、軍務局長として米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官とともに日独伊三国軍事同盟条約締結に強硬に反対し、「海軍左派3羽烏」とも称された。この当時は支那事変(日中戦争)が本格化しはじめた。長江流域には、英・米・仏の権益が多く、それらの国々との摩擦が各所で起き、海軍に関係する問題は全て軍務局長の井上へ集中した。井上の最大の懸念は、アメリカの態度硬化だった。

しかしマスコミは、英・米・仏を中国の蒋介石を援助していると批判し、ドイツの「躍進」ぶりを持ち上げて、反英米・親独の世論を煽っていた。海軍内部にも三国同盟を支持する者も多く、井上はヒトラーの『我が闘争』の原書の、訳本では省かれたヒトラーの日本人蔑視を公言している部分を訳し、軍務局長名で海軍省内に通達していた。
「ヒトラーは日本人は想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら小器用・小利口で役に立つ存在と見ている。彼の偽らざる対日認識はこれであり、ナチスの日本接近の真の理由もそこにあるのだから、ドイツを頼むに足る対等の友邦と信じている向きは三思三省の要あり、自戒を望む」。
しかし、結局昭和15年(1940)、三国同盟は締結された。

井上は自らを「ラジカル・リベラル」と称し、剛直で理論家肌の性格と切れすぎる頭脳は、「三角定規」「剃刀」と異名され、相手が面目を失うまで手厳しく批判するなど矯激な行動が見られ、部内には敵も多かったようだ。しかし、艦長時代には艦長不在中に勝手に艦長室のベッドで熟睡してしまった従兵を気づかい、自分はベッドの端で就寝し、従兵が気づいて直立不動で謝罪しても、まあいいから朝の総員起こしまで寝ておけと不問に付したりもし、「三角定規ではあるものの杓子定規ではない」との評価も多かったようだ。

当時の海軍軍人としては珍しく、女性に対しては禁欲的だった事で知られており、たまに待合茶屋などに行っても布団に入っては英書を読んでいたという。しかし、公務の時には表に出ない内面の優しさや温かさからか、芸者たちには大いに慕われていた。米内や山本とともに馴染みだった横須賀の料亭の女将は「いくら叩いても埃一つ出てこない人です」と言っていたという。

海軍内では、すでに大艦巨砲主義による艦隊決戦の時代ではないという先見の明をもち、航空戦力を充実すべきとの考えだったが、その主張が十分に取り入れられることはなかった。また、米内光政、山本五十六とともに、日米開戦には強硬に反対していたが、時代は後戻りができない状況にまでなっており、海軍の不戦論はかなわなかった。米内は盛岡藩、山本は長岡藩、井上は仙台藩と、戊辰戦争の際には賊軍の藩の出身であり、長州藩の流れを持つ陸軍と日米開戦をめぐって激しい攻防を行ったとの見方をするものもいる。

井上は、戦艦比叡の艦長、太平洋戦争中には、海軍次官、航空本部長を歴任し、第4艦隊司令長官となった。昭和17年(1942)1月、オーストラリアをアメリカから遮断し孤立させるため、ニューギニア島南東岸のポートモレスビーを海路から奇襲攻略することが決定された。井上の第四艦隊は、陸軍歩兵連隊、海軍陸戦隊をのせた11隻の輸送船の護衛だった。しかし3月10日、米空母レキシントンとヨークタウンからの航空攻撃により、日本軍は艦船4隻が沈没、中破小破14隻、戦死130名という損害を出した。このため南雲機動部隊より、原少将率いる空母翔鶴、瑞鶴を有する第五航空戦隊が第四艦隊に編入された。

しかしこの作戦は複雑で、戦力が分散され、また『間に合わせ部隊』であり、事前の打ち合わせ・訓練もほとんどできていなかった。一方、暗号解読により日本海軍の動きを察知したアメリカ海軍は、空母レキシントン部隊と空母ヨークタウンの部隊を派遣し、日本海軍の作戦の阻止に動き始めた。

5月4日、米空母ヨークタウンからの攻撃隊が、ツラギの日本海軍基地を攻撃、駆逐艦菊月および掃海艇3隻が撃沈された。日本は米軍機動部隊を索敵したが発見できなかった。5月6日午前、空母ヨークタウン部隊を発見、日本の機動部隊は攻撃準備を行いつつ南下した。しかしヨークタウン部隊まで70浬地点まで接近しながら見つけられず反転し、先制攻撃のチャンスを失った。

5月7日早朝、ヨークタウンの索敵機が「空母2隻、重巡洋艦4隻、全艦ヨークタウンの北西方向にあり」と報告、空母レキシントンと空母ヨークタウンから、合計92機が発進して日本軍機動部隊に向かった。午前9時頃、レキシントンの攻撃隊は軽空母祥鳳を発見、祥鳳はレキシントン隊とヨークタウン攻撃隊の同時攻撃を受け、爆弾13発、魚雷7本が命中し沈没した。

日本軍機動部隊は索敵機よりの情報を得て、攻撃を決意、しかし攻撃は薄暮攻撃になり帰艦は夜となるため、夜間着艦可能な熟練者のみを選抜しての計27機の攻撃隊が発進した。しかし米戦闘機に迎撃され、また薄暮での混乱や日没後の着艦などで多くの味方機を失い、無事帰還したのは6機のみとなった。

5月8日早朝、索敵機からの詳細情報をもとに、米機動部隊から合計73機の攻撃隊が発進した。日本の機動部隊からも空母翔鶴、瑞鶴から合計69機の攻撃隊が発進した。両軍攻撃隊は途中すれ違ったが互いに無視しそのまま攻撃に向かった。

瑞鶴はスコールの下に入り、翔鶴が米攻撃隊の攻撃を一身に浴びた。翔鶴は魚雷をすべて回避したが、爆撃により火災を起こし艦載機の運用は不可能になった。迎撃態勢を敷き待ち構える米機動部隊に突撃した日本の攻撃隊は、レキシントンとヨークタウンに襲い掛かった。レキシントンには魚雷2本、爆弾2発命中し、大爆発を起こし駆逐艦フェルプスの雷撃により自沈した。ヨークタウンは爆撃により損傷したが沈没はまぬがれた。この戦闘で、日米双方ともおよそ半数の航空機が失われた。

井上は、第四艦隊司令部で米空母2隻撃沈確実との報告を受け、「総追撃」を命じようとしたが、この時すでに日本機動部隊は戦場離脱しており、井上はやむを得ず機動部隊の判断を受け入れて正式に撤退を命じた。

井上の第四艦隊は結果的に、この日米機動部隊決戦の蚊帳の外に置かれ、電文を傍受して一喜一憂するしかなく、『サラトガ撃沈』の誤報を全海軍に打電したこともあり面目を失った。井上はこの珊瑚海海戦の指揮が消極的だったとし司令長官を解任されたが、それに対し弁明することは一切なかったと云う。

その後、山本五十六の命令で海軍兵学校校長に就任、このころからすでに日本の敗戦を予感し、敗戦工作を研究し始めた。米内光政が海軍大臣に復帰すると成美は海軍次官として中央に復帰、海軍省教育局長に終戦工作の研究を指示、米内を援け早期和平に向けて尽力する。「敗戦は亡国とは違う。古来いくさに勝って国が滅亡した例は少なくない。逆に戦いに破れて興隆した国がたくさんある。無謀の戦争にこのうえ本土決戦の如き無謀を重ねるなら、日本は本当に亡国になってしまう」として早期終戦を強硬に主張。昭和20年(1945)、海軍大将に昇進し大日本帝国海軍最後の海軍大将となった。

敗戦後、横須賀市長井に隠棲し、贖罪のため、ほとんど人前に出なかったことから、「沈黙の提督」とも呼ばれた。せがまれて子供たちや、横須賀で馴染みの芸者たちに英語を教えたりなどしていた。井上が英語教育をしていた住まいは、かつて井上の英語塾に通った地元の方々によりその一部分が保存され、小さいながら記念館として一般に開放されている。