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今回の旅の始まりは、鶴岡市の古代鼠ヶ関だった。以前、鼠ヶ関は訪れ、近世の関跡は訪問していたが、夕暮れの中時間に追われる訪問で、すぐ近くにあるはずの古代鼠ヶ関は訪れていなかった。みちのくの古代三関の内、勿来の関、白河の関はすでに訪問しており、残るは鼠ヶ関だけだった。

前の日に鶴岡での仕事を終えて、この日の午前中は自由に動き回れる。日の出前に鶴岡を発ち鼠ヶ関に向った。鼠ヶ関も鶴岡市ではあるが、約30kmほどもあり市町村合併後巨大になった鶴岡市の広さをあらためて実感した。市街地を抜けると峠道になり、峠を越えると由良の海岸に出て、そこから6号線は美しい海岸線を走るのだが、この日は日の出前の真っ暗な道をひたすら走った。

県境で朝の光の中で気が付いた。この地の集落は、村上市伊呉野の集落と、鶴岡市鼠ヶ関の集落が切れ目なくつながっている。主な建物は鼠ヶ関がわにあるとはいえ、全くの同一集落といえるものだ。この集落には、歴代の為政者の思惑などとんと及ばなかったのだろう。この一続きの集落の旧道のわきに、唐突に「県境碑」があった。古代関跡の説明板もこの碑の近くの住宅地の中に見つけた。

特段に見るべきものは何もない。しかし、今回の私にとっては重要なものだった。車を停めて、越後側から県境を超えた。震災からこの方のマイナスの気持ちをプラスに切り替えたい思いがあった。

この鼠ヶ関の地には、源頼朝に追われた義経が、平泉への逃避行の途中、船でこの地に上陸したとする伝説があり、それは新庄、大崎、栗原、平泉へと続いている。「義経記」にある、弁慶が関所の役人の前で白紙の勧進帳を読み上げ、一行の危機を救ったという逸話があり、地元の方々は鼠ヶ関こそその地であると信じて疑わない。

国道7号線を北に少し戻ると、近世の鼠ヶ関跡があり、その近くで見かけた「念珠の松」の案内板に何気に惹かれた。ことさら観光地として有名なわけでもないが、地元の方が掲げている案内板などには、なにがしかの誇りが感じられ、そそられるものがある。案内標示にしたがい「念珠の松庭園」を探した。

さほど迷うこともなく、住宅地の中に小さいが瀟洒な庭園の入り口を見つけた。中に入って驚いた。白い玉砂利を敷き詰めた南北に長い小さな庭園いっぱいに、松の枝が横に張り出し、わずかに北に首をもたげ、いままさに北斗の空に登るかのような臥龍の松だ。

説明板を見ると、この庭園は江戸時代から続いた旅館の庭園であったらしく、盆栽の松を植えて、400年の長きにわたり丹精こめて手入れされたものらしい。大名庭園や寺社の庭園とはちがい、造園そのものに重きをおくものではなく、臥龍の松そのものを映えさせる自己主張を抑えた造園であるようで、それもある意味で見事である。

そういえば、江戸時代には、日本海側は北前船が航行し、この鼠ヶ関も恐らくは北前船の拠点であったのだろう。この地にあった旅館も、昭和35年には廃業したらしいが、かつては北前船の出入りでおおいに賑わったのだろう。

歴史散策の中で、常に感じることだが、特に江戸時代の経済は、時間の進み方は現代と比べてはるかにゆったりとしたものだったろうが、グローバル化された現代と違い、その富は地方にも広く分布していた。この松は、この地方が繁栄し活気にあふれていた証なのだろう。

この後、海岸沿いの美しい風景を楽しみながら、国道7号線をゆっくりと北上した。途中東に折れ国道345号線に入り北上し湯田川に向かった。

この国道345号線はかつての幹線道路であったようで、田川には奥州藤原氏一族の田川氏の館があった。またこの道はまっすぐ鶴岡城に向かう道で、戊辰戦争の際には鼠ヶ関と関川で、庄内兵と新徴組が西軍と激烈な戦いを行った。しかしその戦いの渦中、庄内藩は降伏を決し、庄内勢はこの道を鶴岡城に向かい無念の退却をした。

当時、湯田川にはその新徴組の屯所があった。この新徴組は、庄内藩預かりの浪士組で、江戸市中警護を行っていた。乱暴狼藉を働き幕府を挑発していた薩摩藩士らを取り締まり、品川の江戸薩摩藩邸を襲い焼き討ちにし、その後の戊申戦争の発端になった。江戸城が開城ののち、庄内藩は藩主ともども庄内に戻り、新徴組もそれに従った。新徴組は、越後街道を北上する西軍に備えたようで、湯田川の隼人旅館に組役所が置かれた。当時の名残は何もないが、隼人旅館は現在も営業を続けているようだ。

この湯田川を訪れたのは、実はもう一つ、古い昔の思い出があったことも理由の一つだった。かなり以前、一度だけ通りすがりに湯田川を訪れ、趣のある温泉街だとの印象があった。学生時代に、同級生の研究グループが何日間かこの地の旅館に止宿したらしい。そのとき、この地の旅館の娘さんに一目ぼれした話があり、良く聞かされていた。

その娘さんは、この地の娘さんたちと一緒に踊りの稽古会に入っており、私の友人らがこの地に宿泊していたときに、その踊りを披露してくれたらしい。私の友人はその姿にのぼせ上がったようだ。

なんの事はないそれだけのことなのだが、この話には後日談があり、それから何年かしてから、たまたま私は仕事で、鶴岡市のアパートに2年間ほど住んでいたことがある。そのとき同じアパートに、新婚のご夫婦がお住まいになり、聞くと湯田川の旅館の娘さんだという。驚いて私の友人の話をすると覚えており、友人が一目ぼれした当のご本人だった。たしかにすらっとした中々の美人だった。

よく庄内美人といわれるが、たしかに庄内には驚くほどの美人がいた。それも決して手の届かないショーケースの中のような所にではなく、仕事で訪れた先の思いがけないところにいた。ある時は、失業対策事業の道路工事で働いていたハンコタンナ(顔を覆う頭巾のようなもの)を被った農家のお嫁さんが、それをとったらとんでもない美人だった。またある時は、米倉庫で働いていた農家の17・8の娘さんは、今時のアイドル顔まけのほっそりした華奢な美人だったが、これが60kgの米袋をひょいひょいとかついで運んだ。

私にとって湯田川は、今も庄内美人を代表する地であるのだ。いまどきの観光地としては、特段のテーマパークなどあるわけでもなくあまり受けないかもしれない。しかし風情のある町並みを持った温泉である。この町並みを写真に収め、この風景と庄内美人が素朴なままであり続けることを願った。

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