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青森県藤崎町字藤崎

 

鹿島神社境内に、大正時代から昭和の始めにかけて活躍した、大関大ノ里の顕彰碑が建っている。

大ノ里、本名天内萬助は、明治25年(1892)この藤崎町に生まれた。元々相撲が好きで、明治43年(1910)に大相撲入りを決意、翌年周囲の制止を振り切って入門を志願した。身長は164cmで、その小ささから驚かれたが、その熱心さで特に入門が許され、明治45年(1912)初土俵を踏んだ。

大正7年(1918)5月場所で新入幕、大正11年(1922)1月場所で小結、同年5月場所で関脇、大正13年(1924)5月場所に大関になった。小兵ながら、「肉体と力には限界があるが技には限界がない」と、努力と精進により番付を駆け上った。しかしさすがに番付上位では小兵ゆえの弱点を突かれ、好成績を収めるまでには至らなかった。

しかし優勝はないが、向上心を失わずに稽古に取り組み、立派に大関を務め続け、その温厚な性格、若手に対する熱心な指導のために「相撲の神様」と呼ばれるようになり、多くの力士たちの人望を集めた。

昭和7年(1932)1月に発生した「春秋園事件」では、その盟主の一人となり相撲協会を脱退した。これは天竜と大ノ里を中心に、複数の関取が力士の地位向上や日本相撲協会の体質改善などを要求したものだった。しかし要求はほとんど受け入れられず、大ノ里らは協会を脱退し新たに関西角力協会を設立した。

新協会は力士総当りのリーグ戦を行うなど、当初は人気が高かったが、徐々に劣勢となり、満州に活動の場所を求めるなどしたが、双葉山の活躍にも押され徐々に客足が衰えていった。

昭和12年(1937)12月に関西角力協会は解散した。この時、関西協会に所属していた力士のほとんどは東京の相撲協会に復帰帰参した。大ノ里はそれまでの心労がたたったか肋膜を患い、愛弟子達の帰参を見届けた所で昭和13年(1938)1月、満州大連の赤十字病院で独り寂しく45歳の生涯を閉じた。

大ノ里の訃報の翌日、出羽海部屋に彼の最後の手紙が届いた。出羽海部屋に帰参した自分の愛弟子たちのことを、死の床にあっても気遣い激励する内容を見て、愛弟子たちは慟哭したという。「悲劇の大関」と呼ばれる。

碑前には土俵が築かれており、毎年8、津軽地区の少年達による少年相撲大会が開催されている。

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