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青森県青森市浪岡大字北中野天王

2013/04/27取材

大同2年 (807)、坂上田村麻呂の創建と伝えられる。この地は、北畠氏の居城の浪岡城の南東700mに位置する。浪岡北畠氏六代具永は、京の都に倣い、城の四隅に祇園、八幡、加茂、春日の各神社を配置し、廣峰神社は、そのときの祇園社にあたる。

北畠氏の崇敬篤く、後醍醐天皇の草履を奉り、「天皇社」と称していたともいわれている。また、長慶天皇がこの地に潜み、「浪岡源常」と称していたという伝承があり、これに因んで「御廟社」ともいわれていたと云う。

明治時代の神仏分離令より、社号を改め廣峰神社と称し今日に至る。

3 thoughts on “廣峰神社”

  1. 浪岡商工会会長の一戸善正と申します、今年北畠顕家公の嫡男に因み立ちねぶた(高さ5㍍)を作成し街を役所から駅前(アピネス)まで練り歩き
    町内の顕家公ファンから称賛浴びた祭りでした。
    今迄北畠公を祭る機会が数度有ったようですがなぜか知りきりトンボでできなかったようです。
    6代目の具永公が京都の栄誉栄華を求めすぎて家計が苦しくなり土地の境界が下で一気に不満が爆発し一族が身内を切り殺す
    事が発生し、その後から北畠家の絆が綻び津軽為信に靡く家臣がでて末路になったと聞いております。
    今の時代になり何ら差しさわりが無くなったからか祭りは成功に結び付きました・・・ただししっかりした文献が無くいい伝わったことしか言われないのが残念でなりません!
    もし、しっかりした文献が有るのであれば、浪岡地域民にご指導願えれば大変嬉しく思います、来月福島の霊山寺に行き北畠公の
    掛け軸の絵をお借りしたお礼に行く予定です。
    取りとめのない文章ですが「天皇社」と称し祀ったと言われることも初めてですし、長慶天皇が浪岡に住んだことも初めて知ってことであります。
    北畠顕家公や浪岡に住んだその子孫について何か我々に情報提供できることあればお願いした思い出投稿しました。
    宜しくご指導願います。

  2. 私のコメントに何かご意見や情報があればお寄せ願います。

  3. コメントをありがとうございました。

    >今年北畠顕家公の嫡男に因み立ちねぶた(高さ5㍍)を作成し街を役所から駅前(アピネス)まで練り歩き町内の顕家公ファンから称賛浴びた祭りでした。<

    多くの方々に是非知らせたいイベントですね。現在リニューアル中のサイトには、イベントの告知や、地域の物産などを無料で紹介できる仕組みをつけておりますので、ぜひご利用ください。

    >今の時代になり何ら差しさわりが無くなったからか祭りは成功に結び付きました・・・ただししっかりした文献が無くいい伝わったことしか言われないのが残念でなりません!<
    >もし、しっかりした文献が有るのであれば、浪岡地域民にご指導願えれば大変嬉しく思います、来月福島の霊山寺に行き北畠公の掛け軸の絵をお借りしたお礼に行く予定です。<

    残念ながら「しっかりした文献」はありませんし、私は地域の歴史を語るのに、それが必要とは考えておりません。津軽の定説としての「歴史」は、権力を握った津軽氏の歴史であり、それが史実とは限らないと思っております。むしろ史実は、皆さんの中に伝えられている伝説、伝承の中にこそ含まれているものと考えており、その時代状況と照らし合わせながら見ることにより、はっきりとしない形ではあれ史実が浮かび上がってくるものと思っています。

    北畠氏についていえば、福島県郡山の「宇津峰城」、福島県伊達の「霊山城」、宮城県多賀城や石巻の護良親王伝説、山形県天童の北畠天童丸伝説(それは青森県鰺ヶ沢の「天童山」につながっていきます)、岩手県花巻市の「御所館」と数多くあり、それが津軽の浪岡に収束していきます。

    これらの様々な伝説、伝承が、正確な文献がないからといって切り捨てられるものではありませんし、むしろ時代状況を精査しながら、伝説、伝承の「粉飾」をそぎ落とせば「史実」が浮かび上がってくると思います。

    私は、自分を「歴史家」とは考えてはおりません。「みちのく悠々…」サイトでは「紀行家」「物書き」であり、地域の方々から伝説、伝承を教えていただき、それらを矛盾なく精査することで、史実を浮かび上がらせたいと思っています。

    >取りとめのない文章ですが「天皇社」と称し祀ったと言われることも初めてですし、長慶天皇が浪岡に住んだことも初めて知ってことであります。<

    長慶天皇の伝承も、北畠氏の伝承をたどるように各地に残されており、津軽浪岡に収束しています。津軽の長慶天皇の伝説は、他の地域と異なり、例えば皇子や后の墓や、従者の伝承などが今に伝えられており、具体的で生活感があります。その意味では何らかの史実が含まれているのではないかと思っています。

    浪岡ならば、西光院の「皇子の墓」、八幡神社前の「菊代姫の墓」などがあり、また弘前市紙漉沢には「上皇宮」や「白山堂」など多数の伝承があるようです。

    http://mitinoku.biz/hist_walk/hist_aomori/?p=650

    >北畠顕家公や浪岡に住んだその子孫について何か我々に情報提供できることあればお願いした思い出投稿しました。<

    「東北の北畠氏」としての大きなくくりで考えれば、広範囲でおもしろい動きができるかもしれませんね。お役にたつことがありましたら協力は惜しみません。

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