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青森県西津軽郡鯵ヶ沢町釣町

2013/06/09取材

鯵ヶ沢港を望む天童山上に築かれた館である。天童山と道路一本隔てた向かいの丘陵もかつては堀切で区画された郭だったと思われる。北、東、西の三方は断崖で守られ、南が僅かに丘続きになっている。

天童山にはかつて「鯵ヶ沢古城堀切の城」があったと古書に記されており、浪岡北畠一族である北畠天童丸の居館があったとされる。

南北朝期に、北畠天童丸は山形県天童市の舞鶴山に館を築き、南朝方として周囲の勢力を糾合していた。しかし南朝方の退勢は覆うべくもなく、出羽に北朝方の斯波兼頼が入部して以来その圧力をうけ、文中年間(1372~74)、天童丸は津軽浪岡方面に落ちていったされる。

当時、津軽を支配していたのは安東氏や南部氏で、どちらも有力な南朝方の領主だった。北畠氏は南部氏の庇護を受け浪岡に落ち着き、天童丸はこの鯵ヶ沢に館を築いた。

この公園のある山は「天童山」「舞鶴山」と呼ばれ、山上には北畠氏の拠点があったといわれている。一般に「天童古城」と呼ばれ、城主の北畠天童丸は北畠顕家の子孫とされるが定かではない。荒谷には、天童丸の居館と伝えられる「天童屋敷」「長者屋敷」があったが、現在館跡は破壊され残存していない。

この地は、種里城にあった大浦氏(津軽氏)の、津軽への出口に当たり、南部氏を後ろ盾にしていた北畠氏による、大浦氏を封じ込めるための館だったと考えられる。その後の詳細は定かではないが、大浦氏の津軽への進出により、この地は大浦氏の支配下に入った。

その後、この地には津軽藩二代藩主信枚の弟の津軽百助信隆が長松館を築いた。その時期に、新町を作るために山を崩したといわれている。

現在天童山は公園になり、その向かいの丘陵頂部は畑として利用されている。