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青森県五所川原市飯詰字福泉

2013/06/09取材

 

別名:高楯城

飯詰城は五所川原市街地の東方、飯詰地区東側の標高60m、比高30mほどの丘に築かれた平山城。北麓流れる糠塚川を自然の堀とし、東西に伸びる丘陵上に、西郭、主郭、東郭が築かれている。北側は糠塚川の急崖で、その上の緩斜面には数段の帯郭が配され、南側斜面にも帯郭が見られる。

城域は、東西約400m、南北約150mほどで、大手口は、西側に置かれていたと思われる。各郭は空堀で区画された連郭式縄張りである。

飯詰城は、弘安元年(1278)、藤崎城主の安東十郎五郎貞季が蝦夷の統治のために柵を築いたのが始まりとされる。

その後、康永3年(1344)、後醍醐天皇に仕え南朝方として活躍した万里小路藤原藤房は、南朝方の凋落により、安東氏をたより津軽にいたり、その子の景房がこの地に築城し朝日氏を名乗ったとされる。

その後、朝日氏は同じ南朝方だった浪岡の北畠氏の与力として行動をともにした。しかしその後、津軽統一をめざし大浦為信がこの地に勢力を伸ばし、天正6年(1578)には浪岡北畠氏が滅ぼされると、朝日氏10代当主の左衛門尉行安は大浦勢に徹底抗戦した。朝日勢は領民や蝦夷軍とともに数度の合戦で大浦氏を退けたが、同16年(1588)、飯詰城は大浦勢の猛攻を受けた。

大浦勢は、水脈を断って飯詰城を包囲、多勢に無勢の朝日勢は玉砕を覚悟して、老人女子供を逃し、残余の270余名が籠城し抵抗したがあえなく落城し、朝日行安は自害し朝日氏は滅亡した。この飯詰城が落城した事により、大浦為信の津軽統一は完成した。

この落城については、包囲している大浦勢から見える場所で馬を白米で洗い、遠目に水があるように見せかけたが為信に見破られたという伝説や、糖塚川に鎧を投じて逃れようとしたが力尽き、主従が自害して果てたという「鎧留」の地名伝説が残っている。また、毎年落城の日が近づくと、城の周囲に怪異な事が起きるとも伝えられる。