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青森県深浦町深浦

2013/06/08取材

深浦は、古くから交易の盛んな地域だったとされ、縄文時代にはすでに北海道南部との交易が行われていた。

鎌倉時代には、十三湊を本拠とした蝦夷管領安東氏の勢力下にあり、蝦夷地と日本海沿岸の各湊を結ぶ北国海運の重要な寄港池として利用された。深浦湊も十三湊と共に安東水軍の一翼を担い、元亨2年(1322)に起こった安東一族の内紛でも、何らかの関与があったと思われる。

藩政時代になり、幕府及び松前藩による蝦夷地経営の確立と共に、日本海々上交通は、北前船と呼ばれる交易船によって益々繁昌するようになり、弘前領に属する深浦湊も北前船の寄港地又は風待ち湊として、青森、十三湊、鰺ヶ沢と共に藩内四浦の1つとし重要視され、町奉行所、湊番所、遠見番所、御蔵などの藩の施設が設けられ、高台には藩主の御仮屋が建てられ、領内巡視の際は立ち寄ったと言われている。

津軽地方日本海側の最も南に位置し、北の行合崎と西の入前崎にいだかれた深い入り江は、北風に弱いと云う弱点があるものの、上方と松前航路、下北航路の分岐点として渡海する北前船の“風待ち湊”として天然の良港を形成している。

「慶安二年道筋台帳」によると、湊の幅154間(約277m)奥行き200間(約360m)、水深98~9尋、北風を除き船がかりが良く、同湊から松前まで25里、男鹿まで35里とある。

寛文9年()には、幕府の命により港口に常夜灯が設置され、夜間の航行も比較的安全になった。この為、入津船も次第に多くなり、特に宝暦年間(1751~64)以降は、松前航路の隆盛によって、入津は飛躍的に増大し湊は繁栄を極めた。