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青森県弘前市大字御幸町

2017/10/31取材

この建物は、大正10年(1921)に建てられた「中廊下型住宅」といわれるものである。通り土間が建物内を縦断し、北側の台所や小部屋と、南側に居間を配列しており、大正時代の新しい住宅様式である。

津島修治(太宰治)は、大正12年(1923)旧制青森県立弘前中学校に入学、実家を離れ下宿生活を送った。この家の藤田家は津島家の親戚にあたり、昭和2年(1927)から同5年(1930)まで止宿した。

修治は成績優秀で、1年の2学期から卒業まで級長を務め、4年修了時の成績は148名中4番であったという。芥川龍之介、菊池寛、志賀直哉、室生犀星などを愛読、井伏鱒二の『幽閉(山椒魚)』には読んで座っていられないほど興奮した。在学中の17歳頃に『校友会誌』に習作「最後の太閤」を書き、また友人と同人誌『蜃気楼』を発行。次第に作家を志望するようになる。

昭和2年(1927)、旧制弘前高等学校に優秀な成績で入学。当時の弘高は全寮制で1年次は自宅通学以外は寮に入らなければならなかったが、太宰は母の考えもあり、病弱と偽りこの藤田家で下宿生活をしていた。夏休みで金木に帰省中に芥川龍之介の自殺を知り衝撃を受け、弘前の下宿に戻るとしばらく閉じこもっていたという。

昭和3年(1928)、この頃から左翼活動に関わり、当時流行のプロレタリア文学の影響を受けた『無限奈落』を発表した。またこの頃、芸者の小山初代と知り合った。昭和4年(1929)、弘高で起きた同盟休校事件をモデルに『学生群』を執筆、懸賞小説に応募するが落選した。。、12月に自殺を図った。修治はこの自殺未遂の理由を、「私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。」と、実家が大地主であり、左翼活動とのジレンマだったことが推測できる。

昭和5年(1930)、弘前高等学校を卒業、東京帝国大学文学部仏文学科に入学し上京した。東京では小説家を目指し、井伏鱒二に弟子入りするが、弘前の芸者の小山初代や、銀座のバーの女給の田部シメ子などと問題行動を起こし、実家の津島家とのトラブルも絶えず、女性との自殺を繰り返すことになる。