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青森県平川市猿賀
2012/11/03取材
猿賀神社は、仁徳天皇55年(367)、蝦夷征討の際に伊峙水門(いしのみと)で敗死した田道(たみち)将軍(上毛野君田道命)を主祭神とする神社である。
田道将軍は伊峙水門(現在の宮城県石巻市か?)で敗死し、従者によってこの地に埋葬された。後に蝦夷がその墓を暴いたところ、将軍の遺体は大蛇と化して毒気を吐き散らし、人々は恐れて現在地西方の猿賀野に祀ったのが始まりと伝える。その200年後の欽明天皇28年(567)に、この地が大洪水となったとき、田道将軍の神霊が白馬にまたがり、流木を舟にして流れに乗りこの地に至ったことから、現在地に遷座したと云う。
また、桓武天皇の時代に、坂上田村麻呂が蝦夷征討に苦戦していたとき、田道将軍の霊に導かれて大勝した。このため田村麻呂は延暦12年(793)、この地に「神蛇宮」として祠を建て、さらに大同2年(807)には勅命により社殿が造営されたと伝える。
その後、この地を支配した藤原秀衛、北畠顕家、安東教季などの歴代領主から尊崇を集め、社殿は修復、改修され、江戸時代には津軽為信により祈願所として定められ、農漁業、交通、守護神として信仰を集めた。
またこの猿賀の神様は、昔トコロのツルに足をとられて倒れ、ウドのからで目をつついたため片目になってしまった。そのためこの境内の大池には片目の魚が多く棲むと云われ、津軽の古い盆歌にも「おらも見だ見だ猿賀の池よ、猿賀池のじゃっこアみなメッコだ」とうたわれている。このためか眼病にも霊験あらたかとされ、願をかける人は、神様が嫌うウドとトコロを食べないと云う。