青森県平川市尾崎

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尾崎城は、尾崎川北岸の微高地に築かれた平城で、大館とも呼ばれる本郭と、北館とも呼ばれる外郭などからなる。現在あるこの地の集落のほぼ全体が城域であったとされ、木戸口出丸、勘助出丸などの郭で構成されていた。現在は宅地化が進んでおり、本郭部も現在宅地になっているが、西側や東側には、切岸や堀跡などの遺構が見られる。

城域は、東西約700m、南北約250mほどで、比較的規模は大きく、東西に郭を連ねた連郭式縄張りで構築されていた。主郭は東西約130m、南北約90mほどあり、各郭は堀で区画されていたと考えられる。

築城年は不明であるが、暦応2年(1339)の尾崎合戦の際には、曽我貞光の支城として記録がある。津軽の曾我氏は、本家大光寺曾我氏が北朝方、分家岩楯曾我光高が南朝方となり同族で争った。このとき、尾崎城は岩楯曾我氏の支城であったが、大光寺曾我氏によって攻められている。

室町時代、戦国時代は、大浦元信の弟の、尾崎三郎左衛門を祖とする尾崎氏が拠っていた。尾崎氏は、初期は浪岡北畠氏の支配下にあったが、戦国後期の永禄年間(1558~69)には、南部氏傘下の大光寺城主滝本重行に属し、後に大光寺城南部氏の支配下となった。

しかし、その後の南部氏と大浦氏との争乱では中立を保っていたが、本城の大光寺城が大浦為信に攻め落とされると、城主尾崎喜蔵は大浦氏に降伏し臣従した。降伏後は本領を安堵され、尾崎城周辺に1800石を給された。

慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の時、津軽為信は徳川家康に従い出陣し、留守中の尾崎喜蔵、三ツ目玄蕃、板垣兵部らに増援を要請した。しかし三人は叛乱を起こし、500の兵で一時は堀越城を占拠したが、為信はこれを今信則に討たせ、尾崎喜蔵らは討ち死にした。一族など残党が尾崎城に籠城したがこれも鎮圧され、一族郎党13歳以上の者は、男女を問わず打ち首になった。

尾崎城はこのとき廃城となったと思われる。

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