スポンサーリンク

青森県弘前市乳井

2012/11/03取材

乳井茶臼館は津軽平野の南東端、六羽川東岸の北西方向に張り出した比高約60mの丘陵上にあり、現在はリンゴ畑になっている。城の規模は東西約150m×南北約300mほどである。頂部が主郭で、規模は東西約15m×南北25mと小さい。周囲斜面には数段の段郭が配され、北側の稜線には空堀があったと思われるが、現在、それらの遺構は定かではない。

乳井茶臼館の築城時期や築城者の詳細は定かではないが、鎌倉期にこの地に下向した乳井氏によるものと考えられる。乳井氏は始めは乳井古館に居し、後に乳井城とその支城としてのこの乳井茶臼館をきずいたと思われる。

南北朝期に乳井氏は南朝方に与し、北朝方の曽我氏により攻められ一時没落したが、その後、乳井福王寺の別当職を務め、堂衆を率いて次第に勢力を拡大し、天文年間(1532~55)頃には、この地に独立した勢力を築いていた。

その後、この地に南部氏が勢力を拡大してくると、永禄8年(1565)、当主の乳井玄蕃は南部氏の代官滝本重行に暗殺された。しかし元亀元年(1571)、大浦(津軽)為信が南部氏の津軽支配の拠点の石川城を急襲すると、玄蕃のあとを継いだ乳井建清は大浦勢に呼応し、滝本重行を比内に追い落とした。

滝本重行は元亀7年(1579)、檜山安東氏の支援を受け津軽に侵攻、乳井建清は敗れたが、大浦勢は「六羽川合戦」で滝本勢を撃破し、建清はこの地を奪還した。