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青森県弘前市相馬紙漉沢

2013/08/20取材


長慶天皇は、後村上天皇の第一皇子で南朝の第三代天皇だが、南朝方が凋落していく中での天皇で、関連資料が乏しいため、その即位すら疑問視されてきた。しかし、大正時代になり、その即位は動かない事実とされ、正式に第九十八代天皇として皇統に加えられた。

父の後村上天皇の代には、公武合体を目指し北朝方との和議が何度も持ち上がったが、長慶天皇は徹底抗戦派だったために、一度もその形跡がない。

後村上天皇の代に北朝との和睦交渉に尽力した楠木正儀が、正平24(1369)に、ついに北朝方に投降したのは、徹底抗戦派だった長慶天皇との意見の相違が原因と考えられている。

文中元年(1372)には、九州南朝軍の拠点である大宰府が、九州探題今川了俊の軍略により陥落した。弘和3年(1383)に長慶天皇は和平派の後亀山天皇に譲位し、実質的には南北朝の争いは終わった。

しかし、長慶上皇は、北朝の打倒、南朝の復活を強く求めていたようで、各地に残る伝説は、それを裏づけしているように思える。

長慶天皇が譲位後、北朝打倒のために全国を行脚したという伝説、伝承は各地に残されており、長慶天皇の陵墓とされるものは、この地を含め全国に100ヶ所以上あると云う。

この地に伝えられる伝承は、元中2年(1385)、に長慶天皇が身を寄せていた浪岡の館が南部信政に攻められ、天皇は傷を受けて供奉の人々とともに新田宗興が守っていた、ここ紙漉館に逃れてきた。

その後、天皇は応永10年(1403)年に崩御し、山上に葬られたという。皇子である盛徳親王はこの地に新たに寺を建て、上皇廟堂と称して世々子孫が守護してきたと云う。

この旧相馬村には、長慶天皇にまつわる多くの伝承や遺跡、古文書等が残されており、天皇を守護した家臣の名が水木在家、里見、杉沢、宮舘、折笠といった村内の地名となって残っている。

昭和19年(1944)、嵯峨東陵が長慶天皇陵として治定されたことを受け、この地の「陵墓参考地」は廃止となった。