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青森県弘前市相馬紙漉沢

2013/08/20取材


この宮は、大同*年(807)、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折に、宝龍権現を祀ったのが始まりとされる。

元中2年(1385)、長慶天皇が身を寄せていた浪岡の館が南部信政により攻められ」、天皇は傷を受けて、供奉した人々と共に、新田宗興が守っていたここ紙漉館に入った。

天皇は、この地で反撃の機をうかがっていたが、応永10年(1403)、この地で崩御した。60歳だったと云う。

この地で生まれた皇子の盛徳親王は、この山上に塚を築き天皇を埋葬し、権現の跡地1万坪に新たに寺を建て、上皇廟堂と称した。

古くは、宝権現宮、上皇堂、法龍宮、龍田神社などと呼ばれ、世々子孫が守護してきたが、昭和40年()上皇宮と改称した。