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青森県弘前市和徳

2013/08/20取材

 

和徳城は、どの辺りにあったのかは定かではないが、和徳神社の辺りが城の中心部と考えられている。周辺の地形を見れば、湿地帯と水路に守られた平城と思われる。現在は宅地化され、遺構はほとんど残っていない。

弘和年間(1381~84)、藤崎城安東氏の庶流安倍氏が築城したといわれている。しかし十三安東氏が南部氏に追われて蝦夷に渡ると、南部氏は津軽地方の内陸部に侵攻することになる。

文安2年(1445)、安倍伊代守が城主の際、南部氏はこの和徳城を攻めた。このとき、清原氏の流れを汲むという小山内氏が内通し伊予守を殺害し城は落城した。以後、小山内氏は南部氏に従い和徳城の城主となった。

和徳城は、三戸南部氏に対し従順とはいえない大浦氏に対する南部の押さえだったようで、天文12年(1543)、大浦政信は和徳城主小山内永春と戦い討死にしている。

しかし、為信の代になった元亀2年(1571)、津軽における南部方の拠点の石川城が、為信の奇襲よって落とされ、南部方の有力者の石川高信は自刃したとされる。

大浦勢はその日のうちに和徳城に押し寄せ三方から攻め立てた。

和徳勢は城を打って出て応戦したが一人残らず討ち取られ、城兵の多くも討ち取られ、和徳城の讃岐守は自刃し、さらに隠居していた永春も討死し和徳城は落城した。その後、和徳城は為信により森岡信元に与えられた。