スポンサーリンク

青森県弘前市五代早稲田

2013/08/20取材

 

大浦城は岩木山の南東麓、津軽平野西縁の比高約10mの微高地に築かれた平城。

城域は、東西約500m、南北約250mほどである。本郭を中心に東に二ノ郭、さらにその東に三ノ郭、本郭の西には西ノ郭の4つの郭からなっている。本郭は不規則な方形で、各郭は土塁と水堀で区画されていた。大手口は二ノ郭の南側にあった。

現在は、本郭、西ノ郭跡はリンゴ園や畑に、二ノ郭跡には津軽中学校が建っており、遺構はほとんど残っていない。

延徳3年(1491)、十三安藤氏に対する押さえとして種里城に南部光信が入部した。文亀元年(1501)、この地にあった西根城を改修し大浦城と改称して二男盛信を置いた。光信の跡を継いだ盛信は家臣らを移動させ大浦城を本居城とした。

天文2年(1533)、津軽支配を強めようとする南部安信が大光寺城を攻略し、さらにこの大浦城を攻撃したが、南部勢は大浦勢に撃退され盛信は南部氏と和議を結んだ。天文7年(1538)年、盛信が死去すると大浦氏の家督は甥の政信が継いだが、政信は和徳城主小山内氏との戦いで討死、その後は嫡子の為則が継いだ。

しかし為則は病弱で嫡子がなかっため、甥の為信と娘の阿保*を娶わせ大浦氏の家督を譲った。為信は三戸南部氏からの津軽独立を目指し、元亀2年(1571)、石川城攻めを手始めに和徳城、大光寺城を落とし、天正6年(1578)には浪岡城を攻略し、ほぼ津軽を統一した。その後、為信は天正18年(1590)、南部氏に先駆けて豊臣秀吉の「小田原の役」に参陣し、津軽の所領を安堵され南部氏から独立した勢力として豊臣政権に認知された。

文禄3年(1594)、為信は大浦城は津軽地方の西に偏りすぎていることから、支城である堀越城に居城を移し、城番が置かれるだけになり、大浦氏四代90年に及ぶ大浦城の居城としての歴史を終えた。

その後、江戸時代にはさらに弘前に新城を築城し移ることになる。大浦城は、元和の一国一城令により廃城となったが、弘前城の詰城として土塁は残され、その後も火薬庫などが建てられ、津軽氏発祥の地として特別な存在であり続けたようだ。

関連動画: