青森県弘前市藤代1丁目

 
津軽為信の出自には様々な説や伝承があり、南部氏支族で下久慈城主であった久慈氏の出とも、大浦守信の子とも言われる。特に利害を異にする津軽方と南部方の資料とでは記述に食い違いがあるため、はっきりしない点が少なくない。

南部氏側の資料では、為信の出自は南部一族の久慈氏とし、豊臣秀吉から為信に宛てた書状にも「南部右京亮」とあるとされる。津軽氏側は、大浦為則の養子に入った弟の大浦守信の子とされており、これには南部氏から独立した津軽では、南部氏との血縁関係を否定したい意図があるとも言われている。いずれにしても、永禄10年(1567)頃、為信は大浦為則の娘の阿保良を娶り、為則の養子となり大浦氏を継いだ。

元亀2年(1571)、この当時南部氏は、三戸南部宗家の南部晴政と、石川高信の子で三戸南部に婿に入った信直が対立し混乱していた。大浦為信はこの期に乗じ、謀略を用いて石川城を攻め、石川高信は自害したとも伝えられる。為信は近隣からならず者を集め、石川城下の婦女子を襲わせ、石川城の城兵たちが混乱した隙を見て城に攻め入ったと云う。

三戸南部家と石川家の内部抗争をいいことに、為信は周りの豪族を次々に攻めた。天正2年(1574)には大光寺城を攻め、翌年には攻め落とした。天正6年(1578年)には、津軽地域の最大の南部勢力で、南北朝期以来の名門の北畠氏の守る浪岡城に迫った。為信はあらかじめ無類の徒輩を潜入させ、放火撹乱し、浪岡城を落城させ浪岡御所の北畠顕村を自害させた。

南部氏最盛期を築き「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるほど領土を広げた三戸南部の晴政が、天正10年(1582)没した。これにより南部家中は後継者問題で分裂する。本家当主を継いだ南部晴継が14歳で同年急死、石川家と九戸家が南部総領家の後継を争った。結局南部宗家は、石川家の信直が継ぐことになった。

南部宗家の当主となった南部信直は、九戸氏へ大浦為信の討伐を命じた。しかし信直と対立してきた九戸政実がこれに応じることはなかった。南部領内には外敵の侵入が度々あり、また九戸氏の反乱への恐れから、南部信直は自ら為信討伐軍を率いることもできず、そのため津軽は容易に為信に切り取られていった。

天正13年(1585)為信は油川城を攻略し外ヶ浜一帯を制圧、さらに田舎館城を落した。この頃、為信の正室阿保良の弟二人が溺死した。これは為信が、後の跡目争いを避けるため暗殺させたと言われている。また盟友関係にあった浅瀬石城の千徳政氏が南部勢3,000により攻められたときに、これに援軍を送らなかった。

この頃から為信は、津軽独立を果たすためには、中央の豊臣政権に対する工作が必要と考え、天正13年(1585)に上洛しようと鰺ヶ沢より海路出帆した。しかし暴風に巻き込まれ松前沖まで流され、それでも上洛を果たそうと、天正14年(1586)には矢立峠を越えるルートを試みるが、比内の浅利氏の妨害にあい、天正15年(1587)には、兵2,000と共に南部領を突っ切ろうとするが南部氏に妨げられ、天正16年(1588)には秋田口から進んだが秋田氏に阻まれ、いずれも失敗した。

しかし天正16年(1588)には、最後まで抵抗していた飯詰城の朝日行安を破り、津軽一帯と 外ヶ浜ならび糠部郡の一部を手中に収め、ほぼ津軽統一を完成させた。

天正17年(1589)、秋田実季と和睦し、家臣を上洛させ、石田三成を介して豊臣秀吉に名馬と鷹を献上、津軽三郡と合浦一円の所領を安堵された。天正18年(1590)には自ずから家臣18騎を連れて、小田原征伐の為に小田原へ東下する秀吉に駿河で謁見している。これに対して、南部氏は、為信を惣無事令に違反する逆徒として喧伝し秀吉に訴えたが、早くから豊臣政権に恭順の意を示すなど工作し、南部氏に先駆けて秀吉に謁見を果たしていた為信は、その釈明が認められ独立した大名として認知されることに成功した。

以後も三成とは親交を重ね、豊臣政権での立場を強化しようとしたと思われる。また、大浦政信が近衛尚通の落胤だという伝承にちなみ、為信は早くから近衛家に接近し、折々に金品や米などの贈物をしており、上洛した際に元関白近衛前久を訪れ「自分は前久公の祖父の尚通殿が奥州遊歴なされた際の落胤」と主張した。その頃の公家は窮乏しており、関白職に就きたい羽柴秀吉を猶子にして藤原姓を授けた近衛前久は、為信からの経済支援を得て為信も猶子にした。このときから為信は本姓を藤原として、近衛家紋の牡丹に因む杏葉牡丹の紋を使用し、姓を大浦から津軽に改めた。これで形式上は、秀吉と為信は義兄弟となったことになる。

その後は九戸政実の乱の討伐や文禄慶長の役、伏見城普請などに功績を挙げ、文禄3年(1594)には大浦城から堀越城へ居城を移した。慶長2年(1597)には、千徳政氏の子の政康が居る浅瀬石城を攻め、かつて盟友関係にあった千徳一族を滅ぼし、領内の反為信勢力をすべて駆逐した。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、豊臣政権下で石田三成と親交を結び、一定の勢力を保持していた津軽氏は、家康からもその去就を注目されていた。嫡男の信建は、豊臣秀頼の小姓として大阪城にあった。しかし、津軽の領国の周囲は、すべて東軍という状況だった。このため、為信は密かに大阪に200ほどの兵を送り、自身は様子見を決め込み、三男信枚は東軍につかせた。

徳川家康も、津軽氏の去就を計りかね、目付けとしてその後津軽家の重臣となる服部成康を送り込み、為信も東軍として大垣城攻めの先陣を戦うことになった。戦後、大阪城にあり西軍側についた津軽信建は、石田三成の子の石田重成と娘の辰姫を津軽に匿った。為信は、石田三成の津軽独立への尽力に報いるため、徳川家康に関ヶ原での先陣の褒賞を辞退する代わり、三成の子を預かることを黙認させたと云う。

関ヶ原出陣中に、津軽では反乱が起きて、一時堀越城が占拠された。反乱方は、西軍敗戦の報が伝わると戦意を喪失し追討され、大事には至らなかった。またその後も家中騒動で城が占拠されたりなどしたため、慶長8年(1603)、岩木川と土淵川に挟まれた高岡(後の弘前)に新城を着工した。この時、為信はすでに病に冒されていたという。

為信は、西軍についた嫡男の信建に津軽の跡を継がせるわけにはいかないと考え、三男の信牧に後継を託すことにしていた。しかし、信牧の跡は、信建の子の熊千代に継がせようと考えていたようだが、信建と為信はこのときすでに疎遠になっていた。慶長12年(1607)、信建が病に伏せたとの知らせを受けた為信は、自身の病をおして、信建を見舞うために上洛するが、到着前の10月に信建は病死し、自身もそれを追うように12月に京都で死去した。享年59歳だった。

為信の死後、跡を継いだ信牧は、相続をめぐるお家騒動を解決し、弘前の新城を完成させ、豊臣家に近かった大名家の相次ぐ改易などを乗り越え、津軽藩の基盤を確実なものにしていった。

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