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青森県弘前市大字新町(誓願寺)

2013/08/20取材


この誓願寺には、津軽為信の軍師として名高い沼田面松斎の墓がある。

沼田祐光(面松斎)は、津軽為信に仕えたが、出自などそれ以前の足跡は不明な点が多いが、上野の沼田の生まれで、沼田城主沼田顕泰の三男だったが、お家騒動が起き、このとき祐光は一族とともに会津葦名家に逃れ、その後、武者修行で津軽に来て、大浦為信に仕えたとされる。また別説には、上野沼田氏の一族で、若狭武田氏に属した沼田光兼の子で、武田氏被官の松宮玄蕃允に攻められ、沼田氏一族は近江国へ退出、縁戚であった細川藤孝を頼り、祐光は一時期藤孝に仕え、その後、武者修行で津軽に来て、大浦為信に仕えたとも云う。
為信は当初500石を与えるとしたが、祐光は分相応ではないとしてこれを辞退、子息の兵庫助に与えるよう願い、祐光自身は隠居料100石を受けた。元亀2年(1571)石川城攻めに参加、天正3年(1575)には大光寺城攻めにも参加した。

諸国遍歴の故か、あるいはその出自の故か、中央の情勢には明るく、主に中央政界との連絡を担当し為信の津軽統一を影で支えた。津軽独立に当たっては、南部氏を出し抜き、いち早く石田三成を通じて豊臣秀吉に接触し津軽独立を果たすことができたのは、恐らくは祐光のもたらした情報と人脈によるものが大きいと考えられる。

為信の死後は、二代藩主信牧に仕え、徳川の知恵袋の天海僧正との縁を生かし、幕府との関係を密接なものとし、津軽藩の安定に尽力した。また、易学、天文学、陰陽学の知識を生かし、弘前城の築城においては、城地の選定から城下町の造成に大きく関わった。

慶長17年(1612)、弘前城が完成してまもなく病死した。