スポンサーリンク

青森県弘前市銅屋町

2013/08/13取材

この塔は、明治初期に大圓寺が移転するまでは大圓寺が所有していた。最勝院が弘前田町から移転した際に大圓寺から受け継いだもの。

津軽藩の藩祖為信は、津軽統一の際に戦死した多くの敵味方の将士らを供養するという本願を立て、三代目藩主信義が明暦2年(1656)に起工し、四代藩主信政が受け継ぎ、寛文7年(1667)に完成した。

塔内部は来迎壁や四天柱等を緑青、群青、胡粉、辨柄、金箔、銀箔等を使い極彩色で彩られている。中央須彌壇には本尊胎蔵界大日如来、脇仏に稚児聖徳太子像、十王像が安置されている。

塔の高さは約31m、塔の中心にあり、しかも最も大きな部材である心柱は、継ぎ手のない一本ものの角形杉材で、初重天井裏より塔の最先端の寶珠まで立ち上がっている。この心柱は西目屋村村市
の毘沙門堂裏山より切り出したとの古文書が残されている。

・『火の丸』伝説
かつてこの塔には「火の丸」と呼ばれる一振りの名刀が納められていた。その刀に銘は無いのだが、天國の作とも鳥羽院の作とも伝えられていた。

その昔、あるところの下男が、毎晩自分の居間で草鞋や草履を作っていた。小雪のちらつく冷え込むある晩のこと、主人はその下男の居間から明かりが漏れているのを見て、仕事の案配はどうかと、何気なく中を覗き込むと、火の気がないはずの居間が暖かく、非常に明るく美しく見えた。

不思議に思った主人は下男に、「このように暖かく明るく美しくいのは何故なのか」と尋ねると、下男は、「私の所持しているこの太刀を抜いて部屋の隅に立てかけて置きさえすれば、火も焚き火もいりません。不思議な光に部屋は明るく、暖こう御座います」と答えた。

主人は下男の手から太刀を受け取りかざすと、その刀身は、眩いばかりの輝きを発し四方を照らし出した。主人はそれを名剣の徳と感じ取り、下男から譲り受け、尊敬と畏怖の念を込めて「火の丸」と名付け、後にこの五重塔へ納めたと云う。