青森県弘前市銅屋町

2013/08/20取材

 

天文元年(1532)、弘信上人が、堀越城外萩野の地に三宇の伽藍を造営し開基した。慶長14年(1609)、二代津軽藩主信枚が、高岡(現在の弘前)に新城を築いた際に、その鬼門の守りとして、慶長16年(1611)弘前田町に移転し、十二ヶ寺の塔頭寺院を擁した。また、津軽藩の永世祈願所に定められ、寺禄三百石を賜り、歴代藩主から手厚い保護を受けた。

二代藩主信牧の師でもある江戸寛永寺開山の天海らは、寛永3年(1626)に京都五山、鎌倉五山にならい津軽真言五山の制度を定め、最勝院はその筆頭とされ、領内総寺社を統轄する僧録に定められ、更には修験、座頭、巫女等を支配し、社人頭を通じて領内の社人をも支配した。

明治3年(1870)神仏分離令により、支配下の多くの寺院を合併し田町より現在地へ移転し、この地にあった大圓寺の五重塔や本堂、諸堂、など総てを受け継ぎ現在に至っている。

 

・土踏まずの最勝院

弘前城の二の丸と本丸を結ぶ橋に「下乗橋」という赤い塗りの欄干が架かった橋がある。昔、弘前城が高岡城と呼ばれていた頃、津軽藩主はもちろん藩士たちは、この橋にさしかかると、乗っていた駕籠や馬より降り、歩いてこの橋を渡るのが慣わしだった。

しかし、最勝院の住職が城へ赴くときには、駕籠より降りずにそのまま通ることを許されており、その為、城下では「土踏まずの最勝院」と呼ばれていた。これは、当時の藩主の官位が従三位下であったのに対し、最勝院住職は正三位であったためだと伝えられる。

 

・猫突不動明王伝説

かつて、最勝院のまわりにいつのころからか悪猫が住み着き悪さをしていた。ばかでかい三毛猫で、真っ赤な口を開き、牙をむき、するどい爪を振り立て、怪しく目を光らせる怪猫だった。さらに悪賢く、その姿を見ただけで無明の世界へ人々を誘う恐ろしい力を持っていた。その為、近郷近在の人々はその存在に恐怖していた。

寺でも、毎夜常夜灯の大皿の油を舐められ、本堂の火は消え、更に供物等もたちどころにかすめ取られた。さらにその悪事に益々拍車が掛かり、被害は増すばかりで、人々は困り果ていた。何とか退治したいものと色々と策を講じたが、その手に乗るような怪猫ではなく、むしろその裏をかいて一層人々を恐怖に陥れるのだった。

その噂は城内にまで及び、怪猫退治に藩士が出向いたりもしたが、人の力では如何ともし難く、ことごとく失敗した。業を煮やした殿様は、ついに常日頃信仰を寄せていた最勝院にご沙汰を出され、神仏の加護に頼るほか道は無いという仕儀に相成った。七日間にわたる真言の秘法が始まり、霊験あらたかな不動様に一日三座の護摩が焚かれ、祈願は続けられて行った。

満願の日、その日も悪猫は、草木も眠る丑三ツ時に足音を忍ばせ本堂へやって来た。そして、まさにご本尊のお供物に手をかけようとしたその刹那、一喝大音声と共に不動様の右手から降魔の利剣が飛び、悪猫の胸を一気に貫いた。「ギャー!!」ともの凄い悲鳴をあげ、悪猫は本堂の外へ逃げ去った。

その日の明け方、和尚の夢枕に不動様が立たれ、「寺の西方に、成敗した悪猫が居る。手厚く葬るがよい」と告げた。和尚様は早速本堂のあたりを探してみると、その悪猫が胸を真っ赤に染めて、巨大な体を横たえていた。驚いた和尚様は、不動様の前に走り戻ると、忿怒の形相もそのままに、右手に持つ降魔の利剣には血糊がべっとりと付き、左手に持つ羂索は暴れるものを絡めとったかのごとくに乱れていた。人々は、その霊験のあらたかなることに恐れ、且つは驚き、このお不動様を伏し拝んだと云う。

その後、和尚様は供養の塚を建て、懇ろに供養をし葬った。これ以後、里には元の平和が戻ったと云う。

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